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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
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転がる石

 王女付きの侍女から話を聞いた時、自分はそこへ行くべきではないとナタレは思った。


 リリンスが自分に何を話したいのか、まったく想像のできぬほど鈍い少年ではない。八日前に気まずい別れ方をしたきり、一度も顔を合せていなかった。あの夜、謁見室で辛そうに自分を見詰めていた彼女の顔を思い出す。

 リリンスが自分に会いたいと、話をしたいと望んでいると知って、ナタレは胸が痛くなった。身体の内側が疼いて鼓動が速まって、それは純粋な喜びだともう認めざるを得なかった。彼もまたリリンスに会いたくて堪らなかったのだ。


 だが、先に彼女の兄がその場へ向かったという。おそらく妹の短慮を窘めて、王女の自覚を説いて聞かせ、二度とあの属国の王子とは会うなと厳しく命ずるだろう。御託を並べる前に、さっさと彼女を自室へ強制送還したかもしれない。

 だったらもう自分の出る幕はない――ナタレは冷静にそう判断した。


 それなのに、気が付くと礼拝堂へ向かっていた。

 暗くなった王宮に人影は疎らで、行く手を阻む者はいない。最初は急ぎ足程度であったが、徐々に歩く速度が上がり、最後には彼は全力で回廊を走っていた。

 すでにリリンスはいないかもしれない。それでも行かなくては。もし一目でも会えれば、それだけで満足だ。何の後悔もなく、笑って彼女を送り出してやれる。

 焦燥か渇望か分からない感情に背中を押されて、ナタレは必死で走った。アノルトの怒りを買うことなど気に留めもしなかった。


 薄闇の中に佇む礼拝堂は、登りかけた月の光に薄く輝き、王宮内にあってそこだけ異質な空気を纏っていた。アルハ信徒でない彼にとっては馴染みの薄い場所であったが、重々しい石の迫力と荘厳さは感じられた。

 回廊から中庭に下り、石を敷き詰めた小道を駆け抜けて礼拝堂の正面に回る。入口の鉄扉はわずかに開いていた。彼はためらわずに扉を開いた。


 広々とした堂内は、外と同じく薄暗かった。高い天井は闇に塗り潰されている。

 入口から真っ直ぐ進んだ先に祭壇があって、そこにほんの小さな灯りが見えた。

 目を凝らすナタレの耳に、甲高い声が飛び込んできた。

 

「い……や……嫌あっ……!」 


 紛れもないリリンスの悲鳴。考えるより先に、ナタレは駆け出していた。

 窓から差し込む月明りのせいで、そこだけはっきりと見えた。祭壇脇の床に二人の人間が倒れ込み、もつれるように絡み合っている。

 上になっているのは男のものらしい広い背中――その下で、可憐な面差しが恐怖に歪んでいた。長い黒髪を床に広げて男に組み伏せられた姿は、リリンスに他ならない。

 リリンスにのしかかった男の顔は分からなかった。その男の手が、露わになった彼女の滑らかな脛をなぞるのを見て――ナタレは反射的に腕を伸ばした。


「やめろ!」


 男の肩を掴み、渾身の力でリリンスから引き離す。男はナタレの接近に気付いていなかったらしく、不意を突かれて背後に仰け反った。


「狼藉者! このお方を誰だと……」

「……おまえこそ、俺を誰だと思っている?」


 俊敏に身を捩り、ナタレの腕を振り払った男はゆっくりと顔を上げた。ナタレは息を飲む。


「アノルト殿下……」


 彼が今ここにいることは予想していたはずの事態だった。しかしこの状況は。


 束縛から逃れたリリンスは、バネ仕掛けのような動きで半身を起こした。立ち上がることができないのか、尻餅をついた姿勢のまま後ずさる。大きくはだけた衣服を直すこともせず、怯え切った表情で大きく両目を見開いていた。薄闇の中で白々とした胸元が痛々しい。

 ここで何があったのか、彼女が何をされていたのか――ナタレにはにわかに信じられなかった。


「狼藉者はおまえの方だ。どけ」


 立ち上がったアノルトに命じられて、ナタレは我に返った。そして躊躇なく彼とリリンスの間に割って入った。


「どきません。姫様に何を……」

「おまえが今その頭で考えていることだよ」

「きっ、気でも触れたのですか!? 実の妹に!」

「それがどうした。羨ましいか?」


 罪悪感の欠片もない、むしろ朗々としたアノルトの笑みだった。ナタレの背後でリリンスがびくりと震える。彼女の様子からして合意の上とはとても思えなかった。

 ナタレは全身の血液が逆流するのを感じた。足先から頭へ向けて駆け昇ってくるその血は黒い色をしていた。


「そこをどけ、ナタレ。リリンスは俺の妻になる女だ」

「そんなこと許されるはずがない」

「これは家族の問題だ。部外者は引っ込んでろ」


 アノルトはナタレを乱暴に押しのけて、床に座り込んだままのリリンスに近付こうとした。


 オドナス王国において片親の異なる兄妹、姉弟間の婚姻は、そう一般的ではないが認められた風習である。現国王夫妻も異母姉弟であり、だからアノルトの言い分も世迷言とは言い切れない。そうは分かっていたが、しかし。

 ナタレは再び彼の肩を掴み、行く手を阻んだ。


「やめろ! 姫様は嫌がっている!」

「……まったく、いちいち癇に障る奴だ」


 アノルトは憎らしげに舌打ちして、ナタレの襟元をぐいと握った。


「オドナスに刃向った逆賊の分際で! 自分の立場が分かっているのか? 父上が情けをかけなければ、貴様など二年前に首を刎ねられていたのだぞ」


 国王によく似た翳りのない瞳が、紛れもない蔑みを含んでナタレを映している。

 至近距離から向けられる悪意にも、ナタレは怯まなかった。腕の力を緩めずにアノルトを睨み返す。


 自らへの侮辱は今さらどうでもよかった。だがリリンスの怯えた息遣いを背中に感じ、ナタレはアノルトに対して初めて激しい憎しみを覚えていた。

 兄であろうと、いや兄であるからこそ、彼女にこんな思いをさせたのが許せなかった。

 故郷の状況も自分の立場も、その時だけは彼の脳裏から消えていた。 


「殿下、あなたには金輪際、姫様の兄だと名乗る資格はない。あなたは自分の劣情を押し付けているだけだ!」

「同じことをしたいと思っているくせに、偉そうな口を利くな。この腰抜けの偽善者が!」


 焔を噴きそうな視線がぶつかり、交わった。

 ナタレの左手がほぼ無意識に腰へと伸びる。上着の下の革帯には、王宮内でも許可を得て、あの短剣が差してあった。

 対するアノルトは今夜は帯刀していない。しかしまったく焦る様子はなかった。


「抜けよナタレ、抜いてみろ。そうすれば貴様を殺す正当な理由ができる」


 むしろ低い声でそう挑発する。

 冷たい月光の下で、二つの影はしばらく動かなかった。次にどちらかが動く時には必ず血が流れる――そんな張りつめた空気が礼拝堂の温度を下げていた。


 恐ろしい沈黙を破ったのは、その場にいるもう一人の声だった。


「お二人ともおやめ下さい」


 はっきりとした口調でそう言ったリリンスは、自分の足で立ち上がっていた。すでに服の乱れを直し、広がった髪を撫でつけて、普段と変わらぬ姿で二人の若者を見据えている。


「満月の礼拝堂で諍いを起こすなど、アルハ神への冒涜です」


 今しがたまでへたり込んでいた少女とは思えぬほど、凛とした眼差しと物言いだった。青い月光が黒髪を縁取り、蝋燭の炎は赤く頬を照らしている。表情はやや硬いが平静で、まるでよくできた仮面のようだった。

 ナタレとアノルトは揃って気を飲まれ、言葉を失ったが、先に吐息をついたのはアノルトの方だった。


「リリンス、強引な真似をしてすまなかった。だが信じてくれ。俺は心からおまえを……」


 ナタレを押しのけリリンスに歩を詰めるアノルトは、苦しげに眉をひそめていた。リリンスとは対照的な、生々しい痛みの表情である。その痛みの源は恋情か、後悔か。

 すっ、と白い手が上がった。

 華奢でしなやかなリリンスの掌は、兄の胸の高さで止まる。静かで断固たる、拒絶――そこに見えない壁ができたかのように、アノルトはそれ以上動けなくなった。


「お気持ちはよく分かりました、兄様。けれど真実私を妻にとお望みならば、まずは国王陛下にその旨を申し入れ、承諾を得るのが筋でしょう。近々婚約が調う身の私にあのようなお振る舞い、あまりに無体ではありませんか。第一王子のなさりようとはとても思えません」


 リリンスはアノルトを正面から見詰めて言い放った。感情の籠らぬ声で、他人行儀に。


「この私を、下々の女と同じに扱うおつもりですか?」


 怯えの欠片もない、冷たく乾いた空気をリリンスは纏っていた。

 初めて目にする妹の姿に、アノルトは呆然としていたが、やがて大きく首を振った。


「おまえの言う通りだ、リリンス――謝罪しよう」


 そう言って、潔く頭を垂れる。次に顔を上げた彼は、両の瞳に揺るぎない強い光を宿していた。


「では父上の許しが得られれば、おまえに異存はないんだな?」

「はい。お父様がそうお命じになるのなら……兄様と私との婚姻がオドナスのためになると判断されるのならば、私は従います」


 答えるリリンスもまた、揺るぎなかった。彼の想いを平然と受け止めている――ように見える。

 間近にいるナタレだけが、彼女の指が細かく震えていることに気付いていた。彼女の緊張を、恐れを、悲しみを肌で感じる。どれほどの勇気を振り絞って兄に対峙してるか、ナタレにははっきりと分かった。


「分かった。明日にでも父上に話をするよ。兄だからと、もう迷うのはやめた。是が非でもおまえを娶りたい」

「そのお言葉は、私ではなく陛下に」

「ああ、もちろんだ。だがその前に」


 アノルトは妹に優しく微笑みかけて、打って変わった険しい表情をナタレに向けた。


「こいつの存在はおまえのためにならないな。王女と密会を企てた事実を見過ごすわけにはいかない」


 正確には王女の方が望んでナタレは呼び出されただけなのだが、アノルトはあくまで邪魔者を排除するつもりのようだった。自身の行為は棚に上げて、当然のごとく彼を非難する。


「証拠はありません。ナタレは私の悲鳴を聞きつけて来てくれただけ」


 リリンスは身体の後ろに隠していた左手を上げた。

 皺くちゃになった紙片が二つ握られている。先ほどアノルトが破り捨てた手紙であった。

 唯一の証拠と呼べるものを自分自身で廃棄してしまったと気付いて、アノルトは渋面を作る。王女付きの侍女を締め上げれば白状するかもしれないが、そこまで強引な真似もできない。


 向けられた殺意と蔑みにも、ナタレは一歩も退かなかった。再び剣呑な視線が交じり合う。

 そんな二人に、リリンスは淡々と告げた。


「お二人とも、もうお引き取り下さいませ」

「命拾いしたな、ナタレ。リリンス、約束を違えるなよ」


 尊大な言葉とは裏腹に、アノルトの頬を切なげな色が掠めた。彼はそれをいたずらに見せつけることなく、踵を返した。

 凛々しい背中が遠ざかっていくのを視界の隅に収めつつ、ナタレはリリンスに向き直った。


「姫様……」

「私は大丈夫です。あなたも行って下さい」


 彼女の心がずたずたに引き裂かれているのが、それを必死に隠して気丈に振る舞っているのが、手に取るように分かった。ナタレには何と声をかけてよいのか想像もできない――ただ、支えてやりたかった。


「姫様、あの、俺は……」

「行って! お願い」


 リリンスは目を逸らして叩きつけるように言った。

 アノルトと入れ替わりに、新たな足音が湧く。礼拝堂に入って来たのはキーエだった。ひどく慌てた足取りでこちらへ向かってくる。

 喉に何かが詰まって、身体に何かが絡みついて、ナタレはそれ以上何もできなかった。

 深々と頭を下げ、その場を立ち去るのが精一杯だった。





 最初にアノルトと、次にナタレと擦れ違ったが、二人ともキーエを見ても無言だった。同じように硬い表情で、相次いで礼拝堂を後にしていった。

 リリンスだけが祭壇の前に取り残されている。異様な空気をひりひりと感じて、キーエは彼女の元へと走った。


「ご無事ですか、姫様!? いったい何が……」


 月明りのせいだけではなく、リリンスは青い顔をしていた。

 彼女はキーエの問いかけにも答えず、祭壇の脇に置いた燭台を手に取り、左手に握った白いものを蝋燭の炎に近付けた。それは紙だったらしく、みるみる赤く燃え上がって煙を上げた。

 リリンスは炎に包まれたそれを石の床に落とし――後を追うようにしゃがみ込んだ。


「姫様!」


 血相を変えて身体を支えるキーエの腕の中で、リリンスは高熱に浮かされたようにガタガタと震えていた。


「い……石を探さなくちゃ……」

「石?」

「鎖が切れてどこかへ行ってしまったの……大事な石なのに……さ、探さ、探さなくちゃ……」


 そう呟きながらキーエを押しのけ、冷たい床に膝をついて、手探りで懸命に何かを捜し始める。清楚に整った横顔は、奇妙なことに何の表情も浮かべていなかった。ただ大きな目だけが、暗い床の上をひたすら凝視している。

 リリンスの身に起こった出来事を直感して、キーエは彼女を抱き締めた。

 王女の細い身体は、石と同じに冷え切っていた。

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