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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第三章 嵐雲湧き出づ
24/80

告白

 中庭を巡る回廊の片隅で礼拝堂を眺めていたキーエは、予想していなかった事態に当惑していた。


 リリンスが告白を済ませて出て来るまで、少し離れたこの場所で他の人間が来ないように見張っている約束だった。本当は柱の陰に隠れて見守っていたかったのだが、キーエがそれを諦めたのは、恥ずかしいから中には入らないでとリリンスに懇願されたからだ。年頃の少女らしい恥じらいはとてもよく分かったし、また、相手のナタレを信用してもいた。

 あの異邦の王子もまたリリンスを憎からず思っている。キーエの勘は確信に近かった。だからといって、想いを告げられた彼がリリンスに不埒な振る舞いをするとは考えられなかった。何しろクソがつくほど真面目な若者である。

 おそらく死ぬほど悩むのではないか――キーエにはそう分かっていた。けれど同情する気はなかった。自分の大事な姫様の心を奪った責任というものがある。うんと悩んで苦しんで――そしてできれば手酷く彼女を振ってくれないか、と望んでいた。リリンスは悲しむだろうが、それできっぱりと気持ちにケリをつけて、自らの未来に向き合えるだろう。


 今宵は満月。月神が最もよく地上を見渡せる夜である。アルハ神の御前で語った誓いは、何があっても遂行されねばならない。


 蜂蜜色の月明りに照らされた礼拝堂は、白い石壁を薄く輝かせていた。人気のないその場所に、回廊から繋がる石畳の小道を通ってやって来たのは、リリンスの待ち人ではなかった。


「……二度目はないと言ったはずだが」


 それはアノルトだった。すぐにキーエの姿に気付いたらしく、中庭から声をかけてきた。硬質な月光の下、明らかな怒りを含んだ厳しい眼差しでキーエを見据えている。

 キーエはひどく驚いて、頭を垂れることも忘れた。一瞬で様々な考えが脳裏を過る。ここへナタレを呼び出したことが知られたのか、あの手紙はナタレに渡っていないのか、それともナタレからアノルトに伝わったのか――。

 相手がどこまで知っているか分からない以上、いかに有能な侍女といえどもどう取り繕ってよいか迷って、キーエは絶句した。

 視線こそ剣呑だったが、アノルトはごく平静に見えた。


「君は下がりなさい。リリンスには俺が言って聞かせる。こんな馬鹿な真似をして」

「いえ、殿下、これは……」

「下がれ」


 抑揚に乏しい口調は、却って押し殺した強い感情を想像させた。帯刀しているわけでもないのに、キーエは喉元に刃を突きつけられたような気がした。邪魔をすれば斬り捨てると。


 女官が逆らわないと確信しているのか、アノルトはそれ以上何も言わずに、さっさと礼拝堂の入口に向かった。建物の陰に入るとその姿は影法師になって、吸い込まれるように堂内へと消えて行った。


 キーエは後を追うこともできず、かといって部屋へ引き上げるわけにもいかず、その場で立ち竦んだ。分厚い石壁に遮られているせいで、中の物音や話し声はまったく聞こえてこない。リリンスが兄に叱責されているのではと思うと、キーエはいても立ってもいられなかった。

 やはり自分も行って彼女を庇わねば、と決心して、キーエが回廊から足を踏み出した時だった。


 礼拝堂を挟んで反対側の回廊に、アノルトよりもやや小さな人影が現れた。それは手摺りを軽々と飛び越えたかと思うと、駆け足で建物の方へ進んで行く。

 慌てて止めようとしたキーエであったが、月明りの下でその人物の顔がはっきりと見えてぎょっとした――ナタレではないか。

 彼女に気付く様子もなく、ナタレはそのまま礼拝堂の中へ消えていった。


「キーエさん!」


 唖然とする彼女を呼び止めたのは、少女の甲高い声だった。振り向くと、後輩であるティンニーが回廊を駆けて来ている。


「ティンニー、あなたどうしてここに?」

「い……今ナタレ様がこちらに……」

「ええ、礼拝堂に入られたわ。でもその前にアノルト殿下が……」

「わっ、私が……姫様のお手紙を殿下にお渡ししたんです!」


 全力で走ってきたらしいティンニーは、息を切らせながら苦しげに言った。キーエは目を剥く。


「何ですって!?」

「申し訳ございません! 本当にごめんなさい! 姫様のことでまた叱られるのが怖くて……みんなクビになっちゃうんじゃないかと思って……」


 手紙を託されたティンニーは、迷った挙句にそれをアノルトの元に届けたのだ。彼の滞在する棟に乗り込み、王女の使いだと偽って衛兵を突破し、執務中の彼の元へ辿りついた。

 アノルトはためらうことなく手紙の封を切って読み、そして――。


「ありがとう、よく知らせてくれた、ティンニー。君はもう戻りなさい」


 優しい微笑みだった。なのになぜか、彼女はうすら寒いものを肌に感じた。

 その後、部下たちに礼拝堂へ行くと告げて出て行く彼を見送りながら、ティンニーは急に不吉な予感に苛まれた。

 エムゼ総女官長などに告げ口をしては姫様が叱られてしまう。優しい兄であれば彼女を責めたりせずに諭してくれるだろうと、ティンニーなりの気遣いであったのだが。


「それで心配になって……どうしていいか分からなくて……ナタレ様にもお知らせしたんです。殿下が礼拝堂っておっしゃってたから、たぶん姫様はそこでお待ちになってるって」 


 衣服の襟元を握り締めておどおどと話すティンニーを、キーエは怒鳴りつけたい気持ちに駆られた。この娘は、見事にいちばんやってはいけないことをやってくれた、何から何まで。

 しかしそれは、新入りの彼女を安易に使者に選んだ自分の迂闊さでもある。キーエは苛立ちを押し殺し、声を潜めた。


「じゃあナタレ様は殿下がいらっしゃるのを知って、あそこに入られたのね?」

「はい、たぶん……」


 今頃たぶんリリンスは兄から説教をされている、とキーエは想像した。そこへナタレが入って行ったらどういうことになるか、考えただけで寒気がする。下手をすれば刃傷沙汰だ。

 ティンニーはキーエの顔色を窺いながら呟いた。


「何だかアノルト殿下のご様子が変で……怒ってらっしゃるのとも違う気がして、ちょっと心配なんです。姫様たちご兄妹って、あの、仲がよろしいんですよね?」


 先入観を持たない新入りの感想を聞いて、キーエもにわかに不安を覚えた。怒気を孕みながら氷のような冷静さを保ったアノルトの様子は、確かに不気味だった。

 彼が押し殺していたあれは、本当に怒りだったのだろうか。





 蝋燭の芯が、ジジ、とかすかな音を立てる。小さな炎が揺れて、陰影が意思を持ったかのように蠢く。

 リリンスは、自分が何をされているのか分からなかった。兄の腕は熱いのに、唇に押し当てられたものは不自然なほど冷たかった。どうしてこんなに体温が違うんだろう、などと他人事のように考えていた。

 ややあって、アノルトは顔を離した。左腕をリリンスの身体に巻いたまま、右手で彼女の頬をなぞる――愛おしげに。


「リリンス……俺はおまえが好きなんだ。妹としてではなく、おまえを愛している」

「何……何を言って……」

「妻にしたいと、ずっと願っていた。幼い頃からずっと」


 何ら後ろめたさのない告白だった。真っ直ぐに覗き込んでくる黒い瞳には、隠し切れない熱が籠っている。限界まで押し殺された感情は、地下深くを流れる炎の河のように煮え滾っていた。

 それは愛情というより狂気に似ていて、リリンスは悪寒とともにようやく我に返った。


「じょ、冗談よね、兄様……そんな、そんなこと……」

「何度も諦めようと思ったが、やはり無理だ。おまえが他の男に心を奪われるのは耐えられない! アートディアスにも、誰にもやるものか……!」


 ぐい、と大きな掌が後頭部を支え、彼女は再び唇を塞がれた。今度はさっきよりずっと深い口づけで、侵入してきた舌は無遠慮に口腔内を貪る。その感触は不快でしかなく、リリンスは喉の奥から呻き声を漏らした。

 硬い胸を押し返して、彼女はようやく顔を逸らした。


「やめて……嫌です!」

「どうしてだ? リリンスは俺が好きじゃないのか?」

「好きだけど……でもそれは……」

「あの小僧のようには愛せないか?」


 アノルトは薄く笑った――口元だけで。眉間と頬には相変わらず苦悶が刻まれていて、その相反する二つの色が不気味に共存している。

 リリンスは答えられなかった。大好きな優しい兄が突如別人に変貌してしまったとしか思えず、正常に頭が働かなかった。

 そんな妹の様子を見詰めながら、アノルトは上着の内側から白い封筒を取り出した。すでに封は破られている。


「おまえの所の新入りの侍女……なかなか職務に忠実だな。主人に何かあってはいけないと、俺に知らせに来たよ」


 話したいことがあるから仕事が終わったら礼拝堂へ来てほしい、と記された手紙を、ティンニ―はナタレではなくアノルトに渡したのだ。

 彼がここにきた理由をようやく知ったリリンスは愕然とした。力いっぱい身を捩り、何とか腕から逃れたものの、それ以上どうしてよいか分からない。

 アノルトは封筒を二つに破り、くしゃくしゃに丸めて投げ捨てた。


「おまえがあんな奴に……卑しい属国の王子などに惚れていると思うと、頭がおかしくなりそうだった」


 彼は一歩足を踏み出した。リリンスは一歩後ずさる。


「俺の方がずっとおまえのことを理解している。誰よりもおまえを愛している」


 また一歩――同じく後退したリリンスの背中が何かにぶつかった。祭壇の両脇に立つ、太い石柱である。

 思わず背後を振り返ったリリンスの顔の脇に、アノルトは手をついた。そのまま彼女をきつく抱き竦める。


「離して……!」

「誰にも渡さない――俺だけのものだ!」


 彼の声には紛れもない歓喜と苦痛が入り混じっていた。リリンスの首に回された手は細かく震え、その指は決して離すまいと長い黒髪に絡みついている。火のような吐息と早鐘の鼓動――絹の衣服越しに、アノルトの体温と恋情と欲望が伝わってきて、リリンスは恐怖を感じた。

 そう、恐ろしかった――これまで幾度となく触れた兄の身体は優しく心地よかった。それなのに、今自分を抱擁しているのは兄ではなく『男』だと思うと、頼もしいはずの腕力は恐ろしく悍ましいものに思えた。


 アノルトが体重をかけてきて、リリンスは柱に背中を押し付けられたままずるずるとしゃがみ込んだ。さらに強引に肩を押さえられ、仰向けに床に倒れてしまう。


「そんなに怯えないでくれ、リリンス……」


 紗が掛かったように霞んだ眼差しで妹を見下ろし、アノルトは囁いた。


「酷いことは何もしない。俺を受け入れて……愛してほしいんだ」


 さっきよりも熱を帯びた唇が、リリンスの頬に首筋に触れる。

 続けてさらに熱い指先が同じ場所をなぞっても、リリンスは動けなかった。街中でゴロツキに絡まれた時でさえ怯まず立ち向かった少女が、声を上げることすらできずに竦み上がっている。想像もしていなかった兄の想いは鎖のようにリリンスの全身に絡みつき、息もできぬほどに締め上げていたのだ。


 妹の無抵抗をどう取ったのか、アノルトは彼女の衣服の合わせ目を掻き開き、柔らかな胸の膨らみに触れた。もう片方の手では、乱れた裾から覗く白い脛をまさぐっている。冷たい石の床とかさついた指の感触は、彼女に嫌悪感しか抱かせなかった。


「やめて……お願い……兄様……」


 ようやく絞り出した弱々しい声は、舌先ごと唇に吸い取られて消えた。

 強張って震える彼女の胸元に、小さな赤い石が光っている。ごく質素なその首飾りに気付き、アノルトは動きを止めた。どう見ても王宮御用達の商人が取り扱う品ではない。


「……あんなつまらない奴のことは忘れろ。俺が忘れさせてやる」


 彼が首飾りを掴むと、細い鎖は簡単に千切れた。


「い……や……嫌あっ……!」


 初めて上がったリリンスの悲鳴に、アノルトは却って怒りにも似た激情を覚えた。湧き上がってくる衝動に突き動かされるまま、彼は妹の身体に覆い被さっていった。


 その時、背後から彼の肩を掴んだ者がいた。

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