避けられない流れ
カイと入れ替わりに入って来たイオナは、招かれるままおずおずと歩を進め、ユージュの執務机の前に立った。明るい日差しを浴びているのに、その顔色は少し蒼褪めている。緊張しているというより、本当に体調が悪そうだった。
サリエルが、自分が座っていた椅子を運んできて彼女に勧める。
「いえ、私は……」
「座って。時間は取らせないわ」
ユージュに言われて、イオナは戸惑いつつもサリエルにお辞儀をしてから腰掛けた。
「あの……私に用って何なの、ユージュ? 訊きたいことがあるって」
「率直に訊きます。あなた、オドナスの男性と付き合ってるでしょう?」
事務的な、抑揚のない口調での質問だった。イオナは絶句し、サリエルは目を伏せた。
「あなたが仕事の合間によく街へ出ているのは知っているわ。帰るのが遅くなる日もある」
「別に男の人と一緒にいるわけでは……」
「心配した人がいてね。あなたの後を追ったの」
「私をつけたの!?」
イオナは声を荒げて立ち上がった。もう認めてしまったようなものだ。
誰にも話してはいなかったが、サリエルもまた彼女の姿を王都の市街地で見かけていた。
広場で演奏した帰り道でのことだ。雑踏の中で、見知った顔の女神官はある若者の隣で幸せそうに笑っていた。二人がどんな関係なのかは、勘の鋭い彼でなくても分かった。
ユージュは息をついて、机の上で細い指を組み合わせた。
「座りなさい、イオナ。ここのルールは分かってるはずよね? 一族以外の人間と、職務以外で接触してはならない」
イオナは立ったまま、その肩を落とした。
「ごめんなさい……でも彼には何も話していません。お願い、見逃してちょうだい、ユージュ。彼を……愛しているの」
彼女の頼りなげな、だがひたむきな訴えは、同じ年頃の女であれば誰もが共感できるような響きを帯びていた。
「私はここを出て行っても構わないから……だから……」
「神殿を出て、その人の所へ行って、それで秘密を守れる? 大好きなその人に何を訊かれても、一生口を閉ざしていられる?」
窓からの風が、ユージュの切り髪をさわりと揺らした。神殿の長は同情も怒りもその表情に浮かべてはいない。ただ疑問を問い質しているだけ、そんな乾いた穏やかさだった。
「イオナにできるとは、私には思えない」
中央神殿の神官たちが高い技術と豊かな知識を有していることは、王都の人間であれば誰もが知っている。アルハ神の意を受け魔法を駆使してオドナスを支えている、と噂される一族の実態に興味がない者はいないだろう。彼らが外の人間との交流を控えるのは、親しくなることで秘密が漏洩するのを防ぐためだ。
イオナは白い神官服の胸の辺りを握り締めた。引き結ばれた唇は苦しげに震えている。
「言わないわ……約束する。それに、彼は興味本位で詮索するような人じゃない」
ユージュは光る両眼を細めた。同胞であり同僚である女を検分するように眺めている。
「肉体関係は持ったの?」
唐突で実も蓋もない問いに、イオナは大きく目を見開いた。
「な……何を……」
「したか、してないか、訊いているの。一度身体を許した男のことを、あなたは冷静に判断できないでしょう」
バン、と机が鳴った。イオナが力任せに掌を打ちつけたのである。彼女は机に両手をついて身を乗り出し、ユージュを睨みつけた。柔らかい印象のその顔が険しく強張り、頬には朱が上っている。恥ずかしさではなく、怒りのためだ。
「答える義務はないわ――神官長」
「答えなさい。一族の血統にも関わる問題よ」
「何が血統よ! たった百人ちょっとじゃ、もう民族を維持するのは無理よ! あなただって理解してるんでしょ?」
「落ち着いて下さい、イオナ」
口を挟んだのはサリエルだった。彼はイオナの震える背中に手を添え、労わるように言った。
「そんなに興奮すると、お腹の子に障ります」
一瞬、沈黙が下りた。
イオナは大きく息を吸い込み、サリエルに顔を向ける。紅潮していた肌は色褪せ、青白く見えた。
サリエルは幼子を見るような優しい眼差しを彼女に注いでいる。
「自分で気付いているでしょう? あなたは身籠っていますよ」
「それは確かですか? サリエル」
ユージュが訊くと、彼は黙って肯いた。
なぜ彼にそれが分かるのか――奇妙ではあったがユージュは疑いを差し挟もうとはせず、机に肘をついて右掌を前髪の中に入れた。表情は相変わらず薄いが、仕草だけは苦悩を示している。
「イオナ、あなたはしばらく外出禁止よ。監視をつけます」
「い……嫌よ……私産むわ……絶対に堕ろさないから!」
怯えて後ずさるイオナに、ユージュは厳しく、
「あなたと子供を守るために言っているの。妊娠のことはまだ誰にも喋っては駄目。ゼンさんや……『第一世代』の長老たちに知れたら揉め事になる。一族の中で反目が起こるかもしれない」
と告げて、静かに立ち上がった。
「もうあなた一人の問題じゃなくなったのよ、イオナ。悪いようにはしないから、私の言うことを聞きなさい」
イオナはユージュの顔を見ようとした。憎々しいほど毅然とした言葉を吐く若き長がどんな表情をしているのか、確かめたかった。しかし窓の外が明るく、ユージュの顔は逆光になってよく窺えなかった。
「絶対に……この子を守ってくれる?」
「努力する――一族の安寧のために」
ユージュは微笑んでいるようだった。
イオナは無意識にそっと下腹に手を当て、俯いた。できない約束はしない女だ。余計な湿度を持っていないからこそ、頼ってもいいのかもしれない――そう思えた。
「分かったわ……あなたに従います」
彼女は頭を下げて、目尻を拭った。泣いてはいなかったが、涙が溜まっていた。
「あなたに間違いはない。いつだって正しくて、でもあなたの血は冷たいのね、ユージュ。人の気持ちよりも一族の利益が優先。先代とは……シズヤさんとはずいぶん違うわ」
そう口に出したのは、同胞といえども決して他人の感情には流されないユージュに対する、せめてもの抵抗だった。
イオナがドアの向こうに消えると、ユージュはふうと息を吐いた。
「どうするつもりなのですか?」
尋ねるサリエルに、
「彼女の言った通り、この地の人々と血を交えなければ我々は消えてしまいます。遅かれ早かれ避けられない道でした。あまりに突然で驚いてしまったけれど」
と、あまり驚いていないふうに答える。
ユージュの一族が放浪の末オドナスに辿り着いた時、その人数は百五十名以上いた。約半数が三十代から五十代の成人、あとの半数は赤子同然の幼児であった。国王の庇護を受け神殿に収まってから二十余年、年長者が順番に自然死を迎える一方で、新しい生命は誕生していない。聖職者である以上結婚が許されないという建前があり、彼らもそれを受け入れていた。
その結果、彼女らの人口は百十名にまで減少し、『第一世代』と呼ばれる高齢層と『第二世代』である二十歳代の若年層に二極化してしまっている。
この歪な人口構成を立て直して、民族として生き延びなければならない――『第一世代』は一族内で婚姻を進めて子を儲けることを望んでいたが、ユージュはこの地の民との混血もやむなしと腹を括っていた。どちらにせよ神殿を出て還俗することが前提となり、若い『第二世代』の年齢を考えてもそう遠くない未来に決断を迫られるはずだ。
「頑なに純血を守るよりも、大きな流れに交わって取り込まれていく方が、生物のあり方として健康だとは思いませんか?」
ユージュは頬にかかる髪を耳の後ろに流して、小さく笑った。難しい選択を前に、気負いのようなものは感じられなかった。すでに心は決まっているのかもしれない。
肯定も否定もしないサリエルの反応をどう解釈したのか、
「……心配しないで下さい。他の皆を神殿から解放しても、ここは一生をかけて私が守ります」
「一生……その若さでずいぶん早計ですね」
「仕方ありません。先代から引き継いでしまったのだもの――ここの遺産を」
年齢に似合わぬ諦観を含んだ声だった。だがそれは決して重苦しくはなく、まるで市場で小銭を落としてしまったことに気づいた程度の淡白なものだった。
「まあ……サリエルが全部片付けて行ってくれるのなら、そんな必要もないのだけど。できないんでしょう? あなたはこの国が好きなんだから」
「オドナスのためにならないことは、あなた方のためにもならない」
「優しいんですね。私と違って」
ユージュは窓を振り返って、眩しそうに目を細める。日差しを避けるように左手を顔に翳した。中指に煌めく黒い下地の指輪は彼女は先代から受け継いだもので、彼らの今は亡き故郷の工芸品であった。
「……イオナに言われてしまったわ。私は冷血なんだそうです」
自嘲を込めて呟く彼女の右手を、ふいにサリエルが捉えた。
初めて触れたわけではない。なのに、その氷のような冷たさはやはりユージュの心に小波を立てる。薄い戦慄に似ていた。
「あなたの血はとても温かいですよ――私と違って」
皮膚の温度とは対照的に、サリエルの表情はあくまでも優しい。少し悲しげなほどに。
「ユージュ、あなたは普通の人間です。この国の人たちと何ら変わりません。自分の心に従うのは構いませんが、何もかも背負う必要はない」
懐かしさ、とも取れる揺らぎが銀の瞳の奥にあった。サリエルは時折、なぜかこんな眼差しをユージュに向ける。それに気づいているユージュは、問い質したい誘惑に駆られる。
なぜそんな目で私を見るのか。私は何なのか、と。
「お言葉は嬉しいです。でもサリエル、傍観するだけなら、我々にこれ以上関わらないで下さい。自分たちで何とかします」
しかし答えを得るのが空恐ろしい気がして、結局今日も問うことはできず、ユージュは必要以上に素っ気なく言った。
「大丈夫、私だって進んで不幸になるつもりはありません」
「手助けは不要ですか?」
「ええ」
たじろがない答えに対して、寂しげな、けれどはっきりとした安堵の気配が伝わってきた。ユージュが軽く身を捩ると、しなやかで冷たい手は、何の余韻も残さずに離れた。
神殿から戻ったサリエルが、ヴィオルと本の包みを抱えてアルサイ湖畔を歩いていると、道の先に佇む人物がいた。水面の照り返しに目を細め、微風に短い髪をそよがせながら、その人物は埠頭からやって来るはずのサリエルを待っていたようだ。
ナタレである。出勤停止になったものの、リリンスと違って謹慎処分を受けたわけではない。しかし自主的に外出を控えて、この三日間は学舎内で事務仕事などを手伝っているらしかった。
真面目な彼らしい反省の方法であり、だからこそ、このような場所での邂逅にサリエルはやや意外そうな表情を見せた。
ナタレは楽師の前で勢いよく頭を下げた。
「フツから聞いた。今回のことではサリエルにまで心配をかけてしまって……本当に申し訳ない」
詫びる彼の顔にはまだ痣が残り、衣服から覗く腕や足には包帯が巻かれていた。日常生活に支障はないとはいえ、軽くはない負傷だったのだ。
サリエルは首を振る。
「謝る必要はないよ。私があの時引き止めていれば、君はそんな怪我を負わずに済んだ」
「俺たちを見逃したことで、国王から叱責を受けたりしなかったか?」
「心配ない。姫様の侍女と担当の衛兵たちにも、特にお咎めはなかったみたいだ」
ナタレはようやく笑顔になった。自分とリリンスが行った場所、彼女の生家についてサリエルがどの程度知っているのか、本当は詳しく訊いてみたかった。だがこの場で長く彼を引き止めるのは悪い気がして、ナタレは用件を切り出すことにした。
「迷惑をかけておいて厚かましいのは承知の上なんだけど……お願いがあるんだ。これを」
彼は着ていた上着の懐をごそごそと探り、小さな木綿布の包みを取り出した。掌の上でそれを丁寧に開き、
「あの、これを……」
「私にくれるのかい?」
「違う! そうじゃなくて……」
赤くなるナタレに、サリエルは苦笑を浮かべた。
「分かってるよ。お渡しすればいいんだね?」
ナタレは湯気が出そうなほど赤面しつつ、肯いた。
ちなみに……ユージュが指に嵌めているのは、漆に蒔絵の指輪です。




