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微睡む流砂の遺産  作者: 橘 塔子
第二章 動き出す世界
13/80

帰宅

 リリンスの覚えている限り、父は愛情表現の頻繁な男だった。


 月に何度か母の住まいを訪れる父は、そこにいる間ずっと、事あるごとに母に触れたがった。食事の支度をする母の背後からちょっかいを出したり、リリンスと手を繋いで歩きながらもう片方の手を母の肩に回したり、彼女が好きで堪らない気持ちを隠そうとはしなかった。そしてその度に母に邪険に扱われて、軽く気を落としていたようだった。

 帰り際にはいつも、別れを惜しむように、父は母に長い口づけをする。


「もうっ……いい加減にしてよね。リラの見てる前で」


 抱き寄せた身体をなかなか離さない父を、母は鬱陶しそうに押しのける。


「じゃあリラにもしてやろう。ほらおいで」


 父は悪戯っぽく笑って今度はリリンスを捕まえ、くすぐったがってキャッキャとはしゃぐ娘の頬に唇を寄せるのだった。母は溜息をついて、そんな彼を追い出しにかかる。


「はいはい、もう帰りなさいね。お迎えが待ってるわよ」

「次は来月になる。それまで元気でな、ミモネ――愛してるよ」

「はいはい、分かってます」


 少し寂しそうに部屋を出て行く父にごく素っ気なく手を振って――しかし母は、階下で待っていた数名の護衛を伴って去っていく彼の後ろ姿を、窓からずっと見送っていた。

 リリンスはなぜか不安になって、母の服の裾を引っ張りながら尋ねた。


「ねえお母さん、お母さんはお父さんが嫌いなの?」


 母は大きな目を優しく細めて振り返る。


「どうしてそう思うの?」

「だってお母さんはお父さんに好きって言わないし、チューされたら嫌な顔してるよ。お父さん……ちょっとかわいそう」

「そうね……そう見えるかもしれないわね」


 リリンスの素直な指摘に、彼女は困ったように笑った。もう一度父の帰っていった街並みを眺め、それから娘の前にしゃがんだ。


「お母さんは、本当はお父さんが大好きよ。この世で二番目、リラの次に好き」

「だったらどうして好きって言わないの?」

「それを言ったら、お父さんはもう来てくれなくなるかもしれないから。お父さんはね……好きって言わないお母さんだから放っておけないのよ。お父さんの傍にはお父さんのことを好きな女の人がたくさんいるからね」


 もう少し大きくなったらおまえに分かるわ、と母は娘の頭を撫でる。リリンスは戸惑うばかりだったが、母が初めて見せた悲しげな表情に胸が苦しくなった。

 父は母を愛している。そして母もたぶん同じくらい父を愛している。なのに母は何を悲しみ恐れているのか――その時のリリンスには理解できなかった。


「これはお父さんには内緒ね。女同士の秘密よ、リラ」

「うん、秘密」

「おまえにいつか好きな人ができたら――」


 結局死ぬまで父を愛していると言わなかった母の手は、優しく心地よかった。


「絶対にお母さんの真似をしては駄目。本当の気持ちを伝えなさい。誰にも気を遣わなくていいから、胸を張って好きだって言うのよ」





 部屋の外に湧いた気配に気づいた侍女が、入口に吊るされた目隠しの絹布を細く開く。そこにいる人物が自分の上司だと分かって、侍女は慌てて部屋の奥の女主人へ報告した。

 長い衣装の裾をさばいて、タルーシアが姿を現した。廊下で控えていたのは、王宮の総女官長エムゼであった。


「正妃様、市中でリリンス様が保護されたとの連絡が入りました」


 エムゼは淡々と告げた。彼女は重大な案件を報告する時ほど、化粧の薄い顔に感情を表さないよう訓練している。

 少し離れた所には衛兵隊長のノジフがひざまずいていた。新兵で衛兵隊に配属されてから、二十年以上王宮を警備する古参の叩き上げである。王女発見の情報は彼からもたらされたものらしい。彼の部下が王都中を探し回っていたはずだ。


「分かったわ。ご苦労でした」


 タルーシアもまた平坦な口調で言ったが、安堵の響きが混じるのは隠せなかった。しかし、


「何やらいさかいごとに巻き込まれたらしく、お怪我をなさっているようです」


 そうエムゼが付け加えると、顔色が変わった。





 夜になってようやく王宮へ帰還したリリンスとナタレは、侍従長エンバスに伴われて国王の待つ風紋殿へ向かった。フツは学舎へ留め置かれている。


 王女が自室から抜け出したという事実は、夕刻頃に明らかになっていた。会議から戻ったキーエがリリンスの寝床の細工に気づいたのである。衛兵も巻き込んで王宮内を探したが姿が見えず、市中に捜索隊が派遣されて大騒ぎになっていたところへ、憲兵隊から連絡から入ったというわけだ。

 当然、顛末は父であるセファイドの耳にも入っている。キーエに付き添われて薄暗い回廊を歩きながら、リリンスは無口だった。少し後ろを進むナタレもまた口をつぐんでいる。


 さすがに沈んだ様子の王女の背に、キーエは気遣うように手を添えた。

 リリンスなりの理由があったのだろうと分かってはいる。彼女は気儘きままに見えて、自らの立場をちゃんと理解している。面白半分でこんな無茶をする娘ではない。だからこそ、なぜ侍女である自分にだけはその理由を話してくれなかったのかと、キーエは悔しく思う。

 とはいえ今のリリンスは疲労困憊を絵に描いたようで、問い詰める気にはなれなかった。


 白い上弦の月が、空の高い位置から見下ろしている。


 風紋殿を入ってすぐの謁見室で、父は待っていた。

 普段セファイドが私的な時間を過ごす居間や私室ではなく、この場に召喚されたというのは正式な譴責けんせきなり懲戒なりを受けることを意味する。つまり公に叱られるのだ。案の定彼はいつになく険しい表情で、玉座にも座らずに立っていた。

 広い室内にいるのは、彼とシャルナグ将軍、そして第一王子アノルトだけだった。発見までの経緯は、すでにシャルナグから詳しく伝えられていた。

 リリンスが部屋の中央でひざまずくより先に、アノルトが大股で妹の傍へ歩み寄る。


「リリンス! 無事でよかった!」


 息が詰まるほどの力で抱き締められて、リリンスは思わず身を竦めた。兄は父に似て背が高い。広い胸に頬が擦れて少し痛かった。

 アノルトはそんなリリンスの様子に気づき、すぐに腕を解いてその顔を覗き込んだ。彼女の左頬はわずかに赤く腫れ、唇の端が切れていた。窃盗団の男に殴られた痕だ。ここに来るまでキーエの用意した薬草入りの湿布を貼っていたのだが、まだ腫れが引かない。


「おまえ……怪我をしてるじゃないか!」

「何でもないわ。心配しないで」


 リリンスは隠すように頬に手を当てたが、アノルトの端整な顔がみるみる怒りに歪んだ。

 彼はリリンスを自分の後ろに押しやり、少し離れた位置に膝をついたナタレへと近寄った。


「貴様のせいだぞナタレ……!」


 と、押し殺した声で言い、ナタレの胸倉を掴み上げる。

 ナタレは抗わずに、引き摺られるように立ち上がった。この二年で背が伸び、小柄とは言えなくなった彼ではあったが、アノルトの前に立つと見上げる姿勢になる。

 応急手当はされているものの、痣と傷だらけになった少年の顔は沈痛な色を浮かべていた。着替える暇もなかったため服にも破れと血痕が目立つ。酷い荒事に関わったのだと容易に想像できた。

 容赦せずに、アノルトはナタレを揺さぶった。


「リリンスを連れ出した上に危険な目に遭わせ、怪我まで負わせた! どうなるか分かっているのだろうな!?」


 激高に任せて振り上げた拳でナタレを殴りつける。ナタレは身構えもせず殴打を受けて、床に転がった。

 だが素早く身体を起こして膝を折り、


「……申し訳ございません、殿下」


 と、深々と頭を垂れた。弁解のひとつもないその態度に、偽りなき後悔を感じ取って、憤怒に燃えていたアノルトの表情が冷めていった。代わりに現れたのは、凍るような憎悪だった。


「ならばその命で贖え」


 彼は低い声で言って、腰に携えた剣に手を掛けた。ナタレは動かない。

 力の籠ったアノルトの右腕を、華奢な手が押さえた。リリンスである。彼女は真っ青になって兄の動きを止め、その胴に縋りついて訴える。


「やめて兄様! ナタレのせいじゃないの! 街に出たいと言ったのは私、ナタレは私を守ってくれたのよ」

「リリンス……」

「悪いのは私! 罰せられるのは私の方だから! お願いだからこれ以上ナタレを傷つけないで」


 清楚な美貌を強張らせ、両目いっぱいに涙を浮かべたリリンスは子供に戻ったように幼く見えた。ナタレを殺させまいという必死な思いが、温かい腕を通してアノルトにも伝わってくる。妹の純粋すぎる気持ちに痛みすら覚え、彼は戸惑った。


「やめなさい」


 静かな声がその場を支配した。あわや惨劇という場面を眺めていただけのセファイドが、ようやく制止をかけたのだ。叱責の響きなど微塵もない口調だったが、アノルトは我に返って数歩後退した。

 背後でシャルナグが渋い顔をしている。もっと早く止めろよ、とでも言いたげだ。


 リリンスは兄から離れ目元を拭って、ナタレは身体の向きを変えて、並んでひざまずいた。

 セファイドはゆっくり彼らに歩み寄り、腕を組んで見下ろす。表情はやはり険しいが、怒りの気配はない。


「リリンス、自分のしでかしたことは分かっているな?」

「はい、私の身勝手な行動で、多くの方たちに心配と迷惑をかけました。すべて私ひとりの責任です。どんな罰でも受ける覚悟ですから、女官や衛兵たちに累が及ばぬようお願い致します」

「今さらおまえに王族の立場や責任を説いて聞かせるつもりはない。おまえはそれをよく理解しているはずだ。だがひとつ訊く――どこへ行っていた?」


 リリンスの肩がわずかに震えた。彼女の動揺はそれだけで、黒く澄んだ瞳で真っ直ぐに父を見返す。


「街を散策していました、お父様。賑やかな王都を見ておきたかったんです。アートディアスへ嫁いだら二度と見られなくなるかもしれませんから」


 自分の生家へ母親の記憶を辿りに行ったとは言わなかった。ただし半分は事実で動機は真実だ。上手い嘘の吐き方だと、ナタレは思った。

 本当か、と問うようなセファイドの視線を向けられ、ナタレは慌てて顔を伏せる。セファイドは小さく息を吐いた。


「その話はまだ正式に決まっていないと言っただろう。王都の視察ならば護衛をつけてやったものを、なぜ黙って抜け出したりしたんだ?」

「申し訳ありません。自由に歩いてみたいと思って……軽率でした」

「市場で窃盗犯を取り押さえたそうだな」


 リリンスは苦い薬を飲んだ後のように唇を引き締めた。やはりそこまで父の耳に入っていたのか。


「それ自体は立派なことだ。さすがは我が娘――と褒めてやりたいところだが、逆恨みを買って絡まれるとは迂闊だったな。おまえを襲った暴漢たちは、おそらく死罪になる」

「死罪……」

「ただの喧嘩ならば数年牢に入れられるだけで済んだだろう。だが王族に、しかも王女に危害を加えたとなると話は変わってくる」

「そんな……だって私は無事だったし、あの人たちだって酷い怪我を負いました。報いは十分に受けたはずです」


 大きく首を振りながら自分を襲った者たちを弁護する娘を、セファイドは厳しい口調でたしなめた。


「王族のおまえが街を歩くのはそういうことなのだ、リリンス。関わったすべての人間に影響を与える。どんな厄介事にも巻き込まれぬだけの、巻き込まれたとしてもうまく処理できるほどの力量がなければ、軽々しく外に出るべきではない」


 窃盗犯を捕まえて憲兵に突き出したことは、かなり危険であったにせよ間違ってはいなかったと今でも思える。しかしそれならば同時に、その後彼らに見つからぬよう王宮へ引き上げる潔さや、絡まれても身分を明かさず切り抜けられる狡猾さを持たなければならなかったのだ。

 自分の中途半端な行動が、犯した罪以上の罰を彼らに課してしまった――リリンスは力なく項垂れた。


 少しの沈黙の後、セファイドは彼女の前に膝をついて、痣になったその顔を上向かせた。


「もっとも……死罪を免れたとしても、俺がそいつらを殺してやっただろうがな」


 物騒な台詞を呟く彼の目はいつもと同じ翳りのないもので、さきほどのアノルトのような剥き出しの怒りは浮かんでいない。だからこそ、父は当然にそれをやるのだろうとリリンスには思えた。


「お父様……私……」

「もう二度と無茶はやるな」


 そっと頬を撫でた掌は、硬く温かかった。自分に対する深い愛情と、自分を傷付けた者たちへの苛烈な殺意を同時に感じて、リリンスは言葉が出て来なくなった。父にこんな感情を抱かせてしまったことに、酷い最悪感を覚えた。

 セファイドはリリンスの頭を撫でて立ち上がり、次にナタレへ顔を向ける。


「どうせこれの我儘わがままに逆らえなかったんだろう? 察しはつく」

「いえ、そのようなことは……」


 恐縮するナタレに、彼は一際厳しく言い放った。


「だがナタレ、あえて言うが、おまえの不甲斐なさが王女に怪我を負わせたのだぞ」


 違う、と言いかけるリリンスを制して、


「押し切られたとはいえ護衛として同行したのなら、命に代えてでも王女を守らねばならなかった。その自信がないのならば、最初から引き受けてはならん」

「仰せの通りです……私はあまりにも未熟でした……」


 床に額がつくほど平伏して詫びるナタレの声には、紛れもない悔しさと怒りが混じっていた。この屈辱的な状況に対するものではない。弱かった自分自身へ向けられた思いだ。

 リリンスの罪悪感はますます深くなる。自分の身勝手が周囲の人間をどれほど傷つけたか、今さらのように思い知ったのだ。

 同じように打ち沈んだ二人を、セファイドはそれ以上責めなかった。彼らが叱責によってしか反省できない類の人間ではないと、よく分かっている。


「リリンス、おまえはしばらく謹慎だ。俺が許可するまで自室から出てはならない。ナタレは八日間の出勤停止とする。始末書を作成して侍従長に提出するように」


 淡々と事務的に告げられ、リリンスとナタレは同時に顔を上げた。同じように驚いた表情で、しかしリリンスはすぐに嬉しそうに口元を綻ばせた。ナタレの処分が存外軽く済んだことを素直に喜んだのだ。


「いつもながら父上は甘い……」


 苦々しく呟くアノルトに、隣で成り行きを見守っていたシャルナグが小声で囁く。


「若い頃のあいつはもっと無茶をやっていたからな。どの口で説教するんだか」


 セファイドにジロリと睨まれて、シャルナグはわざとらしく咳払いをした。若き日の国王は有能だったがやや徘徊癖があって、廷臣や侍従にさんざん迷惑をかけている。シャルナグ自身も十分に振り回されており、嫌味のひとつも言いたくなったのだろう。


「もう部屋に戻りなさい」


 いくぶん優しくそう言い残して、セファイドは身を翻した。苦笑を噛み殺しつつ、シャルナグもそれに続く。

 アノルトはリリンスに近づいて立ち上がらせ、もう一度包み込むように抱擁した。


「あまり心配させるなよ」

「はい……ごめんなさい兄様」


 項垂れた妹の肩を撫でて身を離し、それから凶悪なほど剣呑な眼差しでナタレを見据える。


「今度妹に近づいたら、本当に殺すからな」


 いつもならば怯まずに睨み返すところだったが、ナタレは黙って頭を下げた。全面的に自分に非があると認めているのだ。


 アノルトが立ち去った後、リリンスも部屋へ戻らねばならなかった。キーエに促されながら、リリンスはナタレの方を見た。ごめんなさい、と何度でも詫びたかった。

 しかしナタレはエンバスに付き添われ、その場で王女の退出を待っていた。唇を一文字に引き結び、鈍痛に耐えるように俯いている。

 ついに二人が言葉を交わすことはなかった。

この面子の中にリリンスにガツンと言える奴はいなかった……。

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