『ねずの木』
外観よりも店内は広く、三十人ほどが座れる席があった。テーブルも椅子も年季の入ったものだが、綺麗に掃除されているので雰囲気は悪くない。天井の太い木の梁に据えられた燭台には、もう火が灯されていた。
リリンスはしげしげと古びた店内を見回す。その黒い瞳には懐かしげな光が穏やかに宿っていた。
開店前なので当然客の姿はない。ただテーブルにはすでに小皿や杯が重ねて準備され、もうすぐ営業が開始されることが見て取れた。
タヤタが奥の厨房へ行って声を掛けると、この店の主人とその女房が慌てた様子で飛び出してきた。もう老人といっていい歳の夫婦である。店主は人の好さそうな禿頭の親爺で、女将はぽっちゃりとした体型の婦人だった。
二人は先ほどのタヤタと同じく、驚きながらも喜んでリリンスを抱き締めた。その反応はタヤタよりもより激しくて、涙さえ浮かべながら彼女の髪をくしゃくしゃと撫でる。まるで、長いこと合っていなかった孫に再会した老夫婦のように。
大きくなったな、元気だったか、ミモネの若い頃にそっくりになって――そんな言葉を受けながら、リリンスもまた二人を代わるがわる抱擁した。
彼らの様子を眺めながら、ナタレにもようやく事態が飲み込めてきた。
リリンスの生母は、国王の正式な側室ではなかったのだという。王都の市中に住む平民の女性で、リリンスを産んでからも後宮に入ることを拒んだ。ゆえに、リリンスは八年前に母親と死別するまで、自身の身分も知らず一般市民として育てられた。
つまり、ここはリリンスが幼少期を過ごした場所なのだろう。ミモネというのは母親の名前なのかもしれない。
とんでもないことを知ってしまった――ナタレは自分の鼓動が速まるのを感じた。リリンスの母親の名前や素性は、王宮ですらあまり語られることがない。王女の現在の母親は、あくまでも正妃タルーシアだからだ。
店主と女将は、リリンスとナタレをテーブルのひとつに案内して座らせた。
二人とも、リリンスをリラという名前で呼んでいる。会話の中に、お父さんは元気かい、などと言う言葉が聞こえ、彼女の現況を知っているわけではないのだとナタレは思った。父親の素性を承知していれば、そんな質問はしないだろう。
今のリリンスは質素な身なりではあるが、その髪や肌は美しく手入れされており、やはり平民の娘とは違う。母親の死後、裕福な父親に引き取られたことにでもなっているのではないかと想像できた。
そのうちにタヤタが麦酒を運んで来たので、ナタレは慌ててかぶりを振る。
「いえ、酒は遠慮します」
「どうして? あんたまだ未成年なの?」
「そうじゃないですけど……」
「彼は下戸なのよ」
リリンスはテーブルに頬杖をついてからかうように口を挟んだ。
ナタレはさすがにむっとしたが、事実なので言い返せない。彼はもう飲酒の許される年齢ではあるが、体質的にあまりアルコールを受けつけないのだと、数回酔い潰れた末に思い知った。少量で酔っ払ってしまうのは無様なので、極力酒類は口にしないようにしている。
「私も遠慮するわね、タヤタお姐ちゃん。あまりゆっくりできないから」
「そうなのかい? 今夜は泊っていけばいいのに」
残念そうな声を上げる女将に対し、リリンスは申し訳なさげに睫毛を伏せた。
「実は私……近々王都を出ることになりそうなの」
女将も店主もタヤタも、いっせいに息を飲んでリリンスを見詰める。全員の視線の先で、彼女は穏やかに、少し悲しげに微笑んでいた。
「だから、今日は最後のお別れを言いに来たのよ」
南北と東西の二本の大通りが交わる広場は、王都でいちばん広く、街の中心と言える場所だった。
面積が大きいだけに、ありとあらゆる商品が取り引きされる市場が形成され、それを目当てに国内外から訪れた商人が大勢集まってくる。一日を通して人通りの多い広場であったが、時間帯ごとに露店の種類が変わるのが特徴的だった。都の一等地だけに地代が高く、時間単位で店を入れ替えて出店料を節約する商人が多いのだ。
夕方のこの時間帯は主に料理の屋台が軒を連ねていた。赤く柔らかな西日に照らされた広場には、肉を焼く香ばしい匂いやスープの鍋から立ち上る出汁の香りが漂い、仕事帰りの住民たちを誘っていた。
そんな誘惑に抗いつつ、フツは周囲を見回しながら人混みを歩いていた。
「こんなに人が多かったら見付かるわけないやん」
彼はブツブツと呟きながら、店先の客や広場を行き交う通行人に忙しなく視線を送っている。
学舎を出て市街地にやって来てから、ずっとこんなことを続けていた。いつも遊び歩いている街だとはいえ、腰につけた大ぶりな剣の重さが応えるほど疲れてきた頃だ。
楽師からの依頼は思ったよりも厄介なものだった。ナタレを探せ、というのである。正確には、ナタレを連れて市街地に出て行ったリリンスを見つけ出してほしいと。
そんなん衛兵にでも頼んで下さいよ、と慌てるフツに、サリエルは淡々と、
「本当に彼らが外に出たかどうかは分からないんだよ。あまり事を荒立てるのもどうかと思う。だから君に探してもらって、帰るように促してほしい」
「いてるかどうかも分からん人間を探せって言うんですか!? だいたい王都はめちゃ広いんですよ? そんな、あてもなく……」
「行きそうな場所は何箇所か予想がついているんだ。君なら……大丈夫だろう?」
底知れぬ深さの銀色の瞳でじっと見詰められ、フツは無意識に肯いてしまっていた。本人が分かってやっているのかどうか、サリエルに凝視されて逆らえる人間などいないのではないかと彼は思う。
「まったく……あれは反則やで……」
疲労したフツは茶色い髪を掻き毟って毒づくが、それでも約束を守って、サリエルに指示された場所を律義に巡ってきたのだった。
暗くなってくると余計に探すのが難しくなる。今頃もう王宮に戻って来てるんじゃないか、と諦め半分の気持ちになってきた彼の足が、とある店の前でふと止まった。
立ち並ぶ屋台のひとつだった。東方風の麺類を提供する店らしい。店先に五、六組のテーブルと椅子が置かれ、客たちがそこで麺料理を上手そうに啜っていた。その中に知った顔を見付けたのである。
この状況で声をかけるかどうか迷ったが、
「あれ、フッくんじゃない」
と向こうに気付かれてしまって、観念した。
褐色の肌をした歌姫は明るく笑って手を振っている。飾り気のない衣服の胸元の豊かさや、裾から見え隠れする足先にどうしても目が行ってしまうが、フツは別にそれを誤魔化そうとはしなかった。
「キルケ姐さん、こんな所で食事ですか? 知ってたら俺が誘ったのに」
フツは半ば本気でそう言いながらテーブルに近付いた。艶やかな大人の色香を漂わせたキルケは、年頃の少年たちにとって何かと刺激的な存在である。
「残念ながら、先約がいるの」
キルケは頬杖をついて、向かいの席を見やった。そこで髯面の大男が腕組みをしているのにようやく気付き、フツはぎょっとした。
「しょ、将軍……」
「キルケ殿を誘うなど百年早いんだよ、この不良小僧が」
シャルナグは苦々しい声で言った。彼は挽肉を包んだ小さな饅頭をつまみに、生の蒸留酒をちびりちびりとやっている。すでに食事は終わったらしく、テーブルには空の食器が重ねられていた。
「お二人、もしかして付き合うてはるんですか?」
「まさか。たまにこうしてお食事をするだけ。ねえ、シャルナグ様」
キルケはあっけらかんと即答して、シャルナグは眉間に皺を寄せた。この辺の機微はフツにはまだ分からない。
「じゃあ俺にも望みがあるいうことですね。姐さん、今度ほんまに一緒に遊びに行きましょうよ。俺、憧れてるんですわ。年下は嫌ですか?」
「うーん、嫌じゃないけど、君はちょっと好みじゃないわね」
「そんなこと言わんと……一回だけ! 一回だけお願いします」
「何が一回だ、いい加減にしろ」
シャルナグが割って入って、フツの額を小突いた。キルケは気にしたふうもなく笑っている。本当に興味がないのだろう。
「だいたいおまえは居残り組のくせに遊び歩いて……そんな大層な剣をぶら下げている暇があったら学舎の手伝いでもしろ。ナタレを見習え」
「そうそう、ナタレですよ。ナタレ見ませんでした?」
将軍の小言など軽く受け流して、フツはテーブルに手をついた。シャルナグとキルケは顔を見合わせ、同時に首を振る。
「ここでは見かけてないわ。何? あの坊やも遊びに来てるの? 珍しいわね」
「あいつはおまえと違って真面目だ。探さなくとも夜になる前に戻ってくるさ」
「まあそりゃそうですよね……」
フツは曖昧に笑った。王女が一緒かもしれないんです、とはさすがに口に出せない。
「その名前ならさっきも聞いたなあ」
ふいに、隣のテーブルの客が口を挟んできた。
シャルナグと同じように酒を楽しんでいる中年男性の四人組だが、すっかり顔が赤い。ずいぶん長い間飲んでいるのかもしれなかった。
「ほんまか!?」
思わず身を乗り出すフツへ、
「確か、その名前の小僧を探してるって奴らがここに来てたよ。あんたらが来るちょっと前に」
「うん、俺も聞いた。なあ親爺?」
最後の一言は大きな声で、屋台の奥の店主に向けられたものだった。茹でたての麺に汁をかけていた店主は顔を上げる。
「ああ、何だかガラの悪そうな奴らだったな。ナタレって呼ばれてた若いのと、名前は分からねえが綺麗な女の子を探してるって」
フツは頭を掻いた。その女の子というのはたぶんリリンスだ――あいつら、何か厄介事に巻き込まれてるのか?
サリエルに指示された場所はもうひとつ残っていた。ここから南へ下った下町の一角だ。なぜそんな場所に彼らが行くのか、フツにはさっぱり分からなかったのだが、とにかく行ってみようと決めた。
「ありがと! じゃあ俺はこれで」
挨拶もそこそこに身を翻し、彼は大通りに向かって駆け出した。
キルケは訳も分からずその後ろ姿を見送っていたが、
「シャルナグ様……何かややこしいことになってる気がするんですけれど」
と、連れを見やる。シャルナグは手にした杯の酒を一息に飲み干した。
「そのようだな。ちょっと様子を見てくるよ」
「そうしてあげて下さい。私なら独りで帰れますから」
「申し訳ない。また付き合って頂けると嬉しい――近いうちに」
遠慮気味にそう告げて、キルケの返事を待たず、シャルナグはテーブルに銀貨を置いて立ち上がった。
「……女ほっといて若い子らに構っちゃうところが、お人好しなのよねえ」
問題児の後を追って人波の間に消えてゆく広い背中を眺め、キルケはしみじみと呟く。それは若干の揶揄を含んでいたが、温かいものだった。
リリンスはしばらく店主らと思い出話をして、開店時間になったのを機に店を出た。
店主も女将も引き止めたがったが、彼女は努めて明るく断って、みんな元気でねと笑って手を振り、後は振り返らずに路地を歩き出した。
前のめりになるくらい足早に歩を進める彼女の後ろを歩きながら、ナタレはそっと振り返る。
『ねずの木』の前にはまだ三人が立ち尽くし、リリンスを見送っていた。
小さな建物の密集した通りから見上げる空は細く、夕焼けの茜色に染まっている。
すっかり暗くなってしまった路地は、家路を急ぐ人々で結構賑やかだった。仕事帰りだと思われる彼らの何割かは『ねずの木』のような酒場で一杯やって行くのだろう。人の流れとは逆に、リリンスとナタレは大通りに向かって進んだ。
ナタレは何と声をかけていいのか分からず、ただリリンスの後ろを歩いていたが、彼女の背中がわずかに震えているのに気付いて、思わず手を伸ばした。
だが、その手が触れる前にリリンスは振り返った。
「付き合ってくれてありがとうね、ナタレ」
彼女は泣いてはいなかった。どこかすっきりしたような澄んだ表情で微笑んでいる。
ナタレは手を引っ込めて、彼女の隣に並んだ。
「さっきの店は、お母様の?」
「そう、お母さんは私を育てながらあそこで働いてて、店の二階で住んでいたの。タヤタお姐ちゃんは近所に住んでた友達で……よく一緒に遊んだわ」
「みんな姫様をリラと呼んでいましたね」
「それは私の小さい頃の名前。王宮に入る時に名前を変えたのよ」
初めて聞く話に、ナタレは驚いた。
それは偽名ではなく彼女の本当の名前だった。八歳の時彼女は新しい名とともに王女の身分を得て、その名を捨てたのだ――いや、捨てさせられたのか。
街ではその名前で呼んでほしいと笑ったリリンスの気持ちを思い、ナタレは何も言えずに顔を伏せた。
そんな気遣いを察したのか、リリンスは歩みを止めた。
心配させるつもりはなかった。ただ、ナタレには知られてもいいと――知ってほしいと思ったのだ。




