表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

42/43

第40話:私たちの、静かな反撃


 夕暮れの教室で、二人、涙が枯れるまで泣いた。

 それは、俺たちの関係にとって、必要な儀式だったのかもしれない。天音蓮という圧倒的な才能の前に、一度、完全に打ちのめされること。そして、その絶望の底から、二人で手を取り合って、もう一度、立ち上がること。その涙は、古い自分たちとの決別のための、清めの雨だった。


 文化祭最終日。

 俺たちのクラスのカフェ「カフェ・ノクターン」は、昨日以上の賑わいを見せていた。最終日ということもあり、校内はどこか名残惜しいような、それでいて最後まで楽しもうという、独特の熱気に満ちている。


 その喧騒の中で、俺と響は、昨日までとは、少しだけ違う顔で、ウェイターの仕事をこなしていた。


 響の顔に、もう迷いはなかった。その瞳には、悲しみや絶望の色ではなく、静かだが、燃えるような、強い意志の光が宿っていた。それは、守られるだけのお姫様ではない、自らの足で戦場に立つことを決意した、戦士の瞳だった。


 カフェのスピーカーからは、響がこの日のために作った、新しいBGMが流れている。昨夜、俺の部屋で、俺が淹れたコーヒーを飲みながら、彼女が徹夜で作り上げた曲だ。それは、昨日までの、優しくて、少しだけ臆病だったメロディとは、まったく違う曲だった。


 静かで、穏やかで、どこか物悲しい。ショパンのノクターンを彷彿とさせる、切ない旋律。だが、その旋律の奥には、決して折れることのない、しなやかで、強い芯が、確かに感じられた。それは、絶望の淵から立ち上がった者だけが、奏でることのできる、祈りのような音楽。冬の凍てつく大地の下で、春の訪れを静かに待つ、生命の力強さがあった。


 そのメロディに、最初に気づいたのは、美桜さんだった。


「……ねえ、この曲、昨日と違うよね? なんだか、すごく……心に響く」


 彼女の言葉に、周りにいたクラスメイトたちも、次々と耳を澄ませ始める。カフェの喧騒が、一瞬だけ、その音楽に支配される。


「本当だ……。なんか、泣きそうになる」

「でも、すごく、温かい感じがする。頑張れって、応援されてるみたいな」


 響の音が、言葉を超えて、みんなの心に、直接語りかけていた。技術や、才能や、そんなものさしでは、決して測ることのできない、心の音。それは、聴く者に寄り添い、その傷を優しく包み込むような、不思議な力を持っていた。


 響は、そんなクラスメイトたちの反応を、少しだけ照れくさそうに、しかし、誇らしげに、見つめていた。

 それは、天音蓮の完璧な演奏に対する、俺たちの、ささやかで、しかし、確かな反撃の狼煙だった。力ではなく、心で、音楽は人を感動させることができるのだと。


 その日の午後。カフェに、意外な客が訪れた。

 天音蓮、その人だった。


 彼女は、一人でテーブル席に座ると、何も言わずに、店内に流れる響の曲に、じっと耳を傾けていた。その表情からは、何を考えているのか、まったく読み取ることができない。ただ、その完璧なポーカーフェイスの下で、彼女の心が激しく揺さぶられていることだけは、俺には分かった。


 やがて、曲が終わると、彼女は静かに立ち上がり、俺たちのレジへと向かってきた。

 俺と響は、身構える。また、何か、嫌味を言われるのではないか、と。響は、俺の後ろに隠れることなく、まっすぐに蓮を見据えていた。


 だが、蓮の口から出たのは、予想外の言葉だった。


「……悪くない音ね」


 それは、昨日までの、上から目線の評価とは、明らかに違った。一人の音楽家が、別の音楽家の音に、敬意を払う時の、響きがあった。その声には、ほんの僅かだが、悔しさと、そして、それを超える賞賛の色が滲んでいた。


「あなたの調律、少しは、効果があったようね。音無くん」


 蓮は、俺の顔を、まっすぐに見つめて、そう言った。その紫の瞳には、もう、侮蔑の色はなかった。ただ、好敵手を見つけた、音楽家の、純粋な闘志だけが、燃え盛っていた。


 彼女は、それだけ言うと、何も言わずに、カフェを去っていった。

 残された俺と響は、顔を見合わせる。そして、どちらからともなく、ふっと笑みがこぼれた。


 俺たちの静かな反撃は、確かに、女王の心に届いたのだ。それは、勝利宣言などではない。ただ俺たちは、俺たちの音楽で、ここにいるのだと高らかに宣言したに過ぎない。

 だが、それで十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ