第39話:俺は、君だけの専属調律師
体育館の喧騒を後にし、俺は響の腕を引いて、無我夢中で走った。
どこへ向かうという当てもない。ただ、一刻も早く、あの場所から、天音蓮という存在から、彼女を遠ざけたかった。あの残酷な言葉が、氷の棘のように、俺の耳にも突き刺さって離れない。
たどり着いたのは、文化祭の熱気から取り残されたように静まり返った、普通科校舎の、誰もいない空き教室だった。夕暮れの赤い光が、窓から差し込み、生徒たちのいなくなった机と椅子を、茜色に染めている。その光景は、まるで世界の終わりのように、静かで、物悲しかった。
俺は、そこでようやく足を止めると、響に向き直った。
彼女は、俯いたまま、ぴくりとも動かない。その姿は、まるで、心を失ってしまった精巧な人形のようだった。俺が支えていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい、か弱く、儚い。
「……響」
俺が声をかけても、返事はない。
ただ、その白い頬を、涙が静かに伝っていくのが見えた。声も出せず、ただ静かに涙を流し続ける彼女の姿は、どんな嗚咽よりも、痛切に、その心の痛みと絶望を物語っていた。
悔しかった。
蓮への、どうしようもない怒り。彼女は、音楽の才能を、人を傷つけるための武器として使った。そのことが、許せなかった。
そして、響を守りきれなかった、自分自身への不甲斐なさ。俺は、彼女の隣にいながら、結局、何もできなかった。ただ、彼女が傷つけられるのを、見ていることしかできなかったのだ。
俺は、壁に拳を叩きつけたい衝動を、必死にこらえた。そんなことをしても、何も解決しない。響の心は、癒されない。
俺がすべきことは、そんなことじゃない。
今、俺がすべきことは、たった一つ。
絶望の淵にいる、世界で一番大切なピアニストの心を、もう一度、俺の言葉で、俺の想いで、調律し直すことだ。
俺は、響の前に立つと、その震える両肩を、強く掴んだ。無理やりにでも、彼女の顔を上げさせる。
「悔しいか?」
俺の問いに、響の肩が、びくりと跳ねる。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その蒼い瞳は、悔しさと、惨めさと、どうしようもない絶望で、ぐしゃぐしゃに濡れていた。だが、その奥に、まだ、消えかかりそうな、微かな光が残っているのを、俺は見逃さなかった。
「……悔しいに、決まってるじゃない……!」
絞り出すような、震える声。それは、彼女の心が、まだ死んでいない証拠だった。
「だったら、見返してやれよ」
俺は、彼女の瞳を、まっすぐに見つめて言った。俺の想いの全てを、この言葉に乗せる。
「響の音は、死んでなんかない。あいつの、あの完璧で冷たい音なんかより、ずっと、ずっとすごいんだ。世界で一番、優しくて、温かくて、強い音なんだ。俺が、それを一番よく知ってる」
それは、ただの慰めじゃない。ただの気休めでもない。俺の、偽らざる本心だった。
「俺が、それを証明する」
俺は、響の体を、強く、強く、抱きしめた。彼女の、冷え切った体を、俺の体温で、温めるように。俺の心臓の鼓動で、彼女の止まりかけた心の時計を、もう一度、動かすように。
「俺は、響だけの、専属調律師なんだ。他の誰でもない、君の音を、世界で一番、愛してる。君が奏でる、不器用で、間違ってばかりで、でも、どうしようもなく優しい、その音を、俺は愛してるんだ。だから、信じろ。自分の音を。そして、俺を」
俺の言葉が、彼女の心の、一番深い場所に、届いたのだろうか。
腕の中で、響は、声を上げて、泣きじゃくり始めた。今まで堪えていた、全ての感情を、吐き出すように。それは、絶望の涙ではなかった。悔しさと、そして、ほんの少しの希望が混じった、再生のための、温かい涙だった。
俺は、彼女が泣き止むまで、ただ、黙って、その背中をさすり続けた。
夕日が、教室を、オレンジ色に染め上げていく。それは、終わりを告げる色ではなく、新しい朝の訪れを予感させる、希望の色に見えた。
大丈夫だ。
俺たちがいる限り、ノクターンは、まだ終わらない。
何度だって、もう一度、奏で直すことができるのだから。俺と、お前と、二人で。




