表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

41/43

第39話:俺は、君だけの専属調律師


 体育館の喧騒を後にし、俺は響の腕を引いて、無我夢中で走った。

 どこへ向かうという当てもない。ただ、一刻も早く、あの場所から、天音蓮という存在から、彼女を遠ざけたかった。あの残酷な言葉が、氷の棘のように、俺の耳にも突き刺さって離れない。


 たどり着いたのは、文化祭の熱気から取り残されたように静まり返った、普通科校舎の、誰もいない空き教室だった。夕暮れの赤い光が、窓から差し込み、生徒たちのいなくなった机と椅子を、茜色に染めている。その光景は、まるで世界の終わりのように、静かで、物悲しかった。


 俺は、そこでようやく足を止めると、響に向き直った。

 彼女は、俯いたまま、ぴくりとも動かない。その姿は、まるで、心を失ってしまった精巧な人形のようだった。俺が支えていなければ、今にも崩れ落ちてしまいそうなくらい、か弱く、儚い。


「……響」


 俺が声をかけても、返事はない。

 ただ、その白い頬を、涙が静かに伝っていくのが見えた。声も出せず、ただ静かに涙を流し続ける彼女の姿は、どんな嗚咽よりも、痛切に、その心の痛みと絶望を物語っていた。


 悔しかった。

 蓮への、どうしようもない怒り。彼女は、音楽の才能を、人を傷つけるための武器として使った。そのことが、許せなかった。

 そして、響を守りきれなかった、自分自身への不甲斐なさ。俺は、彼女の隣にいながら、結局、何もできなかった。ただ、彼女が傷つけられるのを、見ていることしかできなかったのだ。


 俺は、壁に拳を叩きつけたい衝動を、必死にこらえた。そんなことをしても、何も解決しない。響の心は、癒されない。


 俺がすべきことは、そんなことじゃない。

 今、俺がすべきことは、たった一つ。

 絶望の淵にいる、世界で一番大切なピアニストの心を、もう一度、俺の言葉で、俺の想いで、調律し直すことだ。


 俺は、響の前に立つと、その震える両肩を、強く掴んだ。無理やりにでも、彼女の顔を上げさせる。


「悔しいか?」


 俺の問いに、響の肩が、びくりと跳ねる。

 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その蒼い瞳は、悔しさと、惨めさと、どうしようもない絶望で、ぐしゃぐしゃに濡れていた。だが、その奥に、まだ、消えかかりそうな、微かな光が残っているのを、俺は見逃さなかった。


「……悔しいに、決まってるじゃない……!」


 絞り出すような、震える声。それは、彼女の心が、まだ死んでいない証拠だった。


「だったら、見返してやれよ」


 俺は、彼女の瞳を、まっすぐに見つめて言った。俺の想いの全てを、この言葉に乗せる。


「響の音は、死んでなんかない。あいつの、あの完璧で冷たい音なんかより、ずっと、ずっとすごいんだ。世界で一番、優しくて、温かくて、強い音なんだ。俺が、それを一番よく知ってる」


 それは、ただの慰めじゃない。ただの気休めでもない。俺の、偽らざる本心だった。


「俺が、それを証明する」


 俺は、響の体を、強く、強く、抱きしめた。彼女の、冷え切った体を、俺の体温で、温めるように。俺の心臓の鼓動で、彼女の止まりかけた心の時計を、もう一度、動かすように。


「俺は、響だけの、専属調律師なんだ。他の誰でもない、君の音を、世界で一番、愛してる。君が奏でる、不器用で、間違ってばかりで、でも、どうしようもなく優しい、その音を、俺は愛してるんだ。だから、信じろ。自分の音を。そして、俺を」


 俺の言葉が、彼女の心の、一番深い場所に、届いたのだろうか。

 腕の中で、響は、声を上げて、泣きじゃくり始めた。今まで堪えていた、全ての感情を、吐き出すように。それは、絶望の涙ではなかった。悔しさと、そして、ほんの少しの希望が混じった、再生のための、温かい涙だった。


 俺は、彼女が泣き止むまで、ただ、黙って、その背中をさすり続けた。

 夕日が、教室を、オレンジ色に染め上げていく。それは、終わりを告げる色ではなく、新しい朝の訪れを予感させる、希望の色に見えた。


 大丈夫だ。

 俺たちがいる限り、ノクターンは、まだ終わらない。

 何度だって、もう一度、奏で直すことができるのだから。俺と、お前と、二人で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ