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第38話:毒を孕んだ追悼の言葉


 万雷の拍手と、熱狂的な歓声。その全てが、ステージ上の天音蓮、ただ一人に向けられていた。

 彼女は、女王の貫禄で、ゆっくりと立ち上がると、汗一つ見せずに優雅に一礼する。その完璧な姿に、聴衆は、さらに大きな賛辞を送った。まるで、偉大な芸術家に捧げるような、敬意に満ちた拍手だった。


 俺は、そんな熱狂の渦の中で、ただ一人、隣に立つ響のことだけを、見つめていた。

 彼女は、まだ、立ち尽くしたままだ。その瞳は、虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。周りの喧騒など、何も聞こえていないかのように、彼女だけの静寂の中に、閉じこもってしまっていた。


 早く、ここから連れ出してやらなければ。このままでは、彼女の心が、本当に壊れてしまう。

 そう思った、その時だった。


 ステージ上の蓮が、すっと手を挙げ、鳴りやまない拍手を制した。そのたった一つの仕草で、体育館が、再び、水を打ったように静まり返る。彼女の支配力は、絶対的だった。


 そして、彼女は、マイクを手に取ると、静かに、しかし、体育館の隅々まで響き渡るような、凛とした声で、こう言った。


「本日は、私の拙い演奏に、最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました」


 その謙虚な言葉に、聴衆から、温かい笑みがこぼれる。だが、蓮の紫の瞳は、笑ってはいなかった。その瞳は、客席の中の、たった一点――響のことだけを、まっすぐに、射抜いていた。それは、獲物を仕留めた後の、冷徹な狩人の目だった。


「最後に、この曲を、ある一人のピアニストに、捧げたいと思います」


 ざわ、と客席が、小さくどよめく。誰もが、その「あるピアニスト」が誰なのかと、興味津々に囁き合っている。

 俺の心臓が、ドクンと、嫌な音を立てて跳ねた。やめろ。それ以上、言うな。お前の言葉が、どれだけ響を傷つけるか、分からないはずがないだろう。


 俺の心の叫びなど、届くはずもなかった。

 蓮は、残酷なまでに、美しい笑みを浮かべると、その毒を孕んだ言葉を、はっきりと、紡ぎ出した。


「過去の栄光にすがり、優しいだけの男の影に隠れることしかできなくなった、哀れなお姫様に。……追悼の意を込めて」


 その言葉が、何を意味するのか。誰に向けられたものなのか。ほとんどの生徒には、分からなかっただろう。ただの、女王陛下流の、皮肉の効いたジョークか何かだと思ったかもしれない。


 だが、響には、そして、俺には、痛いほど、分かってしまった。


 哀れなお姫様。

 それは、今の、自分自身のこと。

 追悼。

 それは、ピアニストとしての、月宮響の、死を意味する言葉。蓮は、大観衆の前で、響の存在価値を、その才能を、公然と、そして完全に、否定したのだ。


「……あ」


 響の唇から、声にならない、小さな悲鳴が漏れた。

 彼女の、ピアニストとしての、けなげなプライド。そして、俺の恋人であるという、唯一の心の支え。その全てが、蓮のたった一言によって、無残にも、粉々に砕け散った。


 がくん、と響の膝から、力が抜ける。

 俺は、崩れ落ちそうになる彼女の体を、必死に支えた。腕の中で、彼女は、わななくように震えている。その震えは、もう、止まりそうになかった。


「……もう、やだ」


 涙さえ、流すことができない。ただ、絶望に染まった瞳で、虚空を見つめている。その瞳には、もう何の光も宿ってはいなかった。


 俺は、込み上げてくる怒りで、我を忘れていた。ステージの上で、勝ち誇ったように微笑む、あの女王を、今すぐ、引きずり下ろしてやりたい。だが、俺がすべきことは、そんなことじゃない。


 俺は、響の体を強く抱きしめると、熱狂の残る体育館を、背にした。

 逃げるように、ただ、ひたすらに。

 この場所から、一刻も早く、彼女を遠ざけたかった。好奇と無理解の視線から、守りたかった。


 蓮が放った、毒を孕んだ追悼の言葉。それは、俺たちの心に、決して消えることのない、深い傷跡を残していった。俺たちの穏やかだった日常は、今、確かに終わりを告げたのだ。


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