第37話:女王が奏でる英雄ポロネーズ
午後の体育館は、異様なまでの熱気に包まれていた。
天音蓮のピアノ・リサイタル。その噂は瞬く間に校内を駆け巡り、ステージの前には、彼女の演奏を一目見ようと、黒山の人だかりができていた。音楽科の生徒だけでなく、普通科の生徒、果ては噂を聞きつけた外部の人間までいるようだ。その誰もが、これから始まる女王の演奏に、期待と畏怖が入り混じった視線を送っていた。
俺は、その人混みの中にいた。
隣には、顔を青ざめさせた響がいる。
結局、俺は蓮の招待を、断りきれなかった。
いや、断らなかった、と言うべきか。
屋上での一件の後、響が「私も、聴きたい。逃げたくないから」と、震える声で、しかし、強い意志を宿した瞳で、そう言ったからだ。彼女は、自分の耳で確かめなければならないと覚悟を決めたのだ。天音蓮という存在の大きさを。そして、自分がこれから挑もうとしている壁の高さを。
彼女のその悲壮なまでの覚悟を、俺は無下にはできなかった。俺にできることは、ただ一つ。彼女の手を固く握りしめ、その隣で、これから始まる処刑台のようなステージを、共に見つめることだけだった。
やがて、体育館の照明が落ち、ステージ上の一点だけに、まばゆいスポットライトが当てられる。
その光の中に、天音蓮が、静かに姿を現した。
観客席から、どよめきと、ため息が漏れる。漆黒のロングドレスを身に纏い、その立ち姿は、まさしく女王の風格。彼女が、ステージ中央で深々と一礼すると、体育館は、割れんばかりの拍手に包まれた。
蓮は、ピアノの前に座ると、しばらくの間、目を閉じて精神を集中させていた。その静寂が、かえって観客の期待を煽る。そして、すっと目を開いた瞬間、彼女の纏う空気が、一変した。穏やかな女王から、音楽の全てを支配する、絶対的な暴君へ。そのプレッシャーは、客席にいる俺たちにまで、ひしひしと伝わってきた。
次の瞬間、体育館の空気が、震えた。
ダダンダンダダン、ダダンダンダダン――。
その、あまりにも有名で、あまりにも力強いメロディ。ショパンの、ポロネーズ第6番『英雄』。祖国ポーランドの栄光と悲劇を歌い上げた、ピアノ史上に燦然と輝く、不滅の傑作。
蓮の指先から紡ぎ出される音は、もはや、ピアノの音ではなかった。
それは、重厚なオーケストラだ。祖国のために戦う、英雄たちの雄叫び。大地を揺るがす馬蹄の響き。激しくぶつかり合う剣の金属音。その全てが、たった一台のピアノから、完璧なバランスで、圧倒的な迫力をもって、再現されていく。
一音のミスも、一瞬の迷いもない。左手が刻む、力強いオクターブの連打。右手が奏でる、華麗で勇壮なメロディ。その全てが、恐ろしいほどの精度でコントロールされている。技術的には、完璧。いや、完璧という言葉さえ、陳腐に聞こえるほどの、神業だった。
聴衆は、その音の洪水に、ただただ、息をのむことしかできない。誰もが、その絶対的な音楽の前に、ひれ伏していた。
俺は、隣に立つ響の様子を、恐る恐る窺った。
彼女は、ステージを、食い入るように見つめていた。その顔は、青ざめているというより、もはや、真っ白だった。まるで、血の一滴も通っていない、蝋人形のように。
絶望。
その二文字が、彼女の全身から、痛いほど伝わってくる。
自分と、天音蓮との、圧倒的なまでの実力差。今の自分には、決して届かない、あまりにも高すぎる壁。ピアニストとしての、全ての自信とプライドが、蓮の奏でる英雄的なメロディによって、粉々に、無慈悲に、打ち砕かれていく。
俺は、響の手を、さらに強く握りしめた。彼女の指先は、氷のように冷え切っていた。
大丈夫だ、と声をかけてやりたかった。
だが、どんな言葉も、この、絶対的な音楽の前では、無力だった。俺の言葉は、この音の嵐にかき消され、彼女の耳には届かないだろう。
やがて、圧巻の演奏が終わり、最後の和音が、雷鳴のように体育館に轟いた。
一瞬の静寂。
そして、次の瞬間、体育館は、今日一番の、熱狂的な拍手と歓声に包まれた。
スタンディングオベーション。誰もが、女王の完璧な演奏に、心からの賛辞を送っていた。
だが、響は、その場に、ただ、立ち尽くしていた。
その瞳からは、光が消え、まるで、魂が抜け落ちてしまったかのようだった。彼女のピアニストとしての心は、今、この瞬間、確かに死んだのだ。そう思わせるほどの、完全な虚無が、そこにはあった。




