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第36話:祭りの日、それは嵐の始まり


 文化祭当日。

 校内は、朝から年に一度の祭典にふさわしい、華やかで浮き足立った熱気に包まれていた。色とりどりの装飾が風に揺れ、生徒たちの楽しげな喧騒が響き渡り、そして、様々な模擬店から漂ってくる、甘くて香ばしい匂いが食欲をそそる。


 俺たちのクラスが出店した「カフェ・ノクターン」も、開店と同時に長蛇の列ができていた。美桜さんを中心とした女子グループが考案した、アンティーク調の手作り内装。隼人たち運動部が淹れる、意外にも本格的なコーヒーの香り。そして何より、このカフェのためだけに作られた、響のオリジナルBGMが、ざわついた空間に落ち着きと品格を与え、客たちの心を掴んでいた。


「この曲、すごくいいね。誰が作ったの?」

「普通科の、月宮響さんだって。元・天才ピアニストの」

「へぇー、すごい! なんか、切ないけど、すごく優しいメロディ……。落ち着くなぁ」


 客たちの賞賛の声が、俺の耳にも届いてくる。俺は、慣れないウェイターとして忙しく立ち回りながらも、その声を聞くたびに、自分のことのように誇らしい気持ちになった。ほらな、響。お前の音は、ちゃんと人の心に届くんだ、と。


 だが、当の本人である響の表情は、どこか晴れなかった。

 彼女も、俺と同じようにウェイターの仕事をしているが、その笑顔はどこか硬く、時折、不安そうに俺の顔を窺っている。俺たちの間にできてしまった、見えない溝。文化祭の喧騒の中にあっても、その溝は埋まることなく、むしろ、より深く、色濃くなっているように感じられた。


 昼休み。俺と響は、交代で休憩を取ることになった。二人きりになれる場所を探して、俺たちは自然と、いつもの屋上へと向かっていた。吹き抜ける風が、祭りの熱気で火照った頬に心地よい。


「……すごい、人気ね。私たちのカフェ」

 響が、フェンスの向こうの喧騒を見下ろしながら、ぽつりと呟いた。


「ああ。響の曲が、いいからな」

 俺がそう言うと、響は力なく首を振った。


「そんなことない。私の音なんて、天音さんのに比べたら……ただの、自己満足よ」

 その声は、自嘲的で、痛々しかった。


「比べるなよ。響の音には、響にしか出せない良さがある。俺は、それが好きだって言ってるだろ」

「でも……!」


 響が、何かを言いかけた、その時だった。

 屋上のドアが、静かに開いた。


 そこに立っていたのは、やはり、というべきか。その登場は、まるで計算され尽くした舞台の一幕のようだった。

 天音蓮、その人だった。


「ごきげんよう、二人とも。文化祭、楽しんでいるかしら?」


 蓮は、女王のような優雅な笑みを浮かべて、俺たちに近づいてくる。その手には、俺たちのカフェで買ったのであろう、テイクアウト用のコーヒーカップが握られていた。その姿は、まるで戦場の視察に訪れた司令官のようだ。


「あなたの曲、聴かせてもらったわ。月宮さん」

「……っ」


 響の体が、びくりと強張る。蓮は、そんな響の反応を楽しむかのように、ゆっくりと言葉を続けた。その声は、どこまでも丁寧で、だからこそ、残酷だった。


「……悪くはなかったわ。優しくて、耳障りのいい、ありふれたメロディ。文化祭のBGMとしては、及第点、といったところかしら」


 その言葉は、褒めているようで、その実、響の音楽を「無個性で、取るに足らないもの」だと、暗に切り捨てていた。響が必死の思いで紡いだメロディを、彼女は子供の戯言のように、軽くあしらったのだ。


「それより、音無くん」


 蓮は、用済みとばかりに響から視線を外すと、俺へと、その紫の瞳を向けた。その瞳には、俺の才能に対する、隠しようのない興味と独占欲が、ギラギラと燃え盛っていた。


「今日の午後、体育館のステージで、私のリサイタルがあるの。あなたにだけは、聴いてほしいのだけれど。……もちろん、特等席を用意してあるわ。私の音楽の、本当の価値がわかる、あなたのためにね」


 それは、拒否権のない、女王からの招待状。俺の隣で、響が息をのむのが分かった。その顔からは、完全に血の気が失せている。彼女にとって、それは恋敵からの、残酷なマウンティングに他ならなかった。


「悪いが、断る。俺は、クラスの仕事があるんでな」


 俺は、響の手を強く握りしめ、きっぱりとそう言い放った。これ以上、響を傷つけさせるわけにはいかない。


 だが、蓮は、そんな俺の返答など、とっくに予想していたかのように、不敵に微笑むだけだった。


「そう。残念だわ。……でも、あなたは来る。必ずね。本物の音楽が、あなたを呼んでいるのだから」


 彼女は、それだけ言うと、優雅に踵を返し、屋上を去っていった。

 残されたのは、重苦しい沈黙と、響の、絶望に染まった瞳。


 祭りの日。その喧騒は、これから始まる嵐の前の静けさに過ぎなかった。

 俺たちの関係にとって、避けられない嵐の始まりを告げる、運命の日。その歯車は、もう、誰にも止められなかった。


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