第35話:芽生えた不安の不協和音
天音蓮との邂逅と、音楽室での対話。
それは、俺の調律師としてのプライドを刺激し、同時に、響の専属調律師であるという俺の覚悟を再確認させる出来事だった。
俺は、響の元へ帰った。
彼女の不安そうな顔を見て、俺は「大丈夫だ」と力強く言い切った。蓮の完璧なピアノよりも、響の不器用で温かいピアノの方が、俺にとっては遥かに価値があるのだと。その言葉に、響は心から安堵したように、涙を浮かべて微笑んでくれた。
俺たちの間にあった不協和音は、完全に消え去った。
そう、思っていた。あの瞬間までは。
だが、俺は気づいていなかったのだ。
響の心の奥底で、今までとは質の違う、新たな不協和音が静かに芽生え始めていたことに。それは、嫉妬という名の、じっとりと湿った、重たい響きだった。
†
「……奏くんは、すごいわ」
その日の夜。
夕食を終え、二人で並んでソファに座っている時だった。響が、ぽつりと、そんなことを呟いた。その声は、どこか遠くを見ているような、不思議な響きを持っていた。
「ん? なんだよ、急に」
「だって、天音さんの、あの完璧な演奏の、ほんの僅かな狂いを、一瞬で見抜いてしまったのでしょう? 私には、まったく分からなかったのに」
彼女の声には、純粋な尊敬の念と共に、俺には聞き取れないほど微かな、寂しげな響きが混じっていた。俺は、その些細な音色の変化に気づくことができなかった。自分の言葉が、彼女を完全に安心させたと、疑いもしなかったのだ。
「まあ、職業病みたいなもんだからな。それより、響の作る曲の方が、よっぽどすごいと思うけどな。心があるから」
俺がそう言って笑いかけると、響は「……そうかしら」と力なく微笑むだけだった。その笑顔が、どこか貼り付けたような、不自然なものに見えたのは、気のせいだろうか。いや、気のせいではなかった。彼女の心は、俺の知らない場所で、静かに揺れ始めていた。
その日から、響の様子が、少しずつおかしくなっていった。
文化祭のカフェで流すBGMの作曲は、表面的には順調に進んでいるように見えた。彼女がピアノに向かう時間も、以前より長くなっている。だが、その音色から、何かが決定的に失われていた。
以前の彼女の音には、喜びや、悲しみや、俺への想いが、不器用ながらも確かに込められていた。それは、間違えることさえも愛おしい、人間味あふれる音楽だった。
だが、今の彼女の音は、どこか違う。まるで、誰かの顔色を窺うように、おそるおそる鍵盤を叩いているような、そんな迷いと恐怖が感じられた。
彼女のピアノの音から、自由が消えたのだ。
まるで、天音蓮の、あの完璧で、機械のような演奏を追い求めているかのように。あるいは、俺に「つまらない音だ」と思われることを、極度に恐れているかのように。
そんな、矛盾した焦りと不安にも似た感情が、彼女の指先を縛り、音楽から彼女らしさを奪っていることだけは、俺にも痛いほど分かった。
なぜ、彼女はあんなに自分を追い詰めるのだろう。
俺は、響の音が好きだと言った。その言葉が、かえって彼女を苦しめているのだろうか。俺の存在が、彼女にとっての新たなプレッシャーになっているのだろうか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。響は時折、物憂げに遠くを見つめては、何かと葛藤しているようだった。それは、俺にはまだ調律できない、新しい不協和音だった。
俺は、その不協和音の正体に、まだ気づけずにいた。ただ、日に日に口数が少なくなり、時折、遠くを見つめては物憂げな表情を浮かべる彼女の姿に、漠然とした不安を募らせるばかりだった。
ある日の放課後。
文化祭の準備を終え、響の部屋で二人、いつものように過ごしていた時だった。響は、新しく作ったという曲を、俺に聴かせてくれた。
それは、技術的には、今までで一番難しい曲だったかもしれない。複雑な和音、目まぐるしく変わる展開。彼女が、血の滲むような努力をしたであろうことは、容易に想像できた。
だが、その音は、俺の心に、まったく響いてこなかった。
まるで、感情のない人形が、ただ正確に指を動かしているだけのような、空虚な音楽。そこには、彼女自身の心の叫びが、どこにも見当たらなかった。
俺は、戸惑いを隠せなかった。どうして、響がこんな曲を?
「……どう、かしら?」
演奏を終えた響が、不安そうな顔で、俺の感想を待っている。その瞳は、まるで判決を待つ被告人のように、怯えて揺れていた。
俺は、言葉を選ばなければならなかった。ここで下手に「すごい」と言えば、彼女はこの間違った道を進んでしまう。かといって、正直に「良くない」と言えば、彼女の努力を否定し、深く傷つけてしまうだろう。
「……すごいな。すごく、難しい曲だ」
結局、俺が口にしたのは、当たり障りのない、技術だけを評価する言葉だった。それが、彼女を傷つけないための、最大限の配慮のつもりだった。
だが、その言葉は、かえって彼女を深く傷つけてしまったのかもしれない。
響は、何も言わず、ただ俯いてしまった。その肩が、小さく震えている。俺の言葉が、彼女の心を肯定も否定もせず、ただ宙吊りにしただけだと、気づいていなかった。
「響……?」
「……なんでもない」
彼女は、そう言って、無理に笑顔を作った。その笑顔が、あまりにも痛々しくて、俺は胸が締め付けられた。
俺たちの間に、見えない溝が、少しずつ、しかし確実に広がっていく。
その原因が、俺が彼女にかけた「大丈夫だ」という言葉の裏側にある、天音蓮への調律師としての興味にあることなど、この時の俺は、知る由もなかった。
芽生えてしまった不安の不協和音は、静かに、そして着実に、二人の心を蝕み始めていた。それは、誰にも聞こえない、二人だけの、悲しい旋律だった。




