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第34話:完璧な音の対話


 女王が残した挑戦状は、夕暮れの廊下に重く響き渡った。

「放課後、音楽科の特別練習室で待っているわ。……賢いあなたなら、来る意味がわかるはずよ」

 その言葉は、俺の調律師としてのプライドを、そして響への想いを、同時に試すかのような、悪魔的な響きを持っていた。


 蓮が完全に姿を消した後も、俺はしばらくその場から動けなかった。隣では、響が俺の腕を掴む手に、ぎゅっと力を込めている。その指先は冷たく、不安に震えているのが伝わってきた。


「……行かないで」


 絞り出すような、か細い声。顔を上げられないまま、響は俺の制服の裾を固く握りしめている。その姿が、あまりにも健気で、痛々しくて、俺は胸が締め付けられる思いだった。


「ああ、行かない。あんな奴の挑発に乗る必要なんてない」


 俺はそう言って、彼女の頭を優しく撫でた。だが、その言葉が、半分は自分自身に言い聞かせるための嘘であることに、俺は気づいていた。


 行かなければならない。

 蓮の言う「来る意味」が何なのか、確かめなければならない。それは、調律師としての本能的な好奇心であり、そして何より、響をこれ以上脅かす存在を、正体不明のまま放置しておくわけにはいかないという、守護者としての責任感だった。


 その夜、俺は響の部屋で夕食を共にしながらも、ずっと考え込んでいた。どうすれば、響を不安にさせずに、蓮の元へ行けるだろうか。

 響は、俺のそんな葛藤を見透かしているのか、いつもより口数が少なく、時折、不安そうな瞳でこちらを窺っている。


「……奏くん」

 食後のコーヒーを飲んでいる時だった。響が、意を決したように口を開いた。

「天音さんのところへ、行くんでしょう?」

「え……」

「わかるわ。奏くんは、そういう人だもの。自分のことより、私のために、危険な場所にだって一人で行ってしまう……。それに、彼女のピアノ、気になっているんでしょう?」


 図星だった。響には、何もかもお見通しだったのだ。

 俺は、観念して頷いた。


「……すまん」

「謝らないで。私は、奏くんを信じてるから。でも、約束して。必ず、私のところに帰ってきてくれるって」


 そのまっすぐな瞳には、嫉妬や不安の色を必死に押し殺し、俺を信じようとする、強い意志の光が宿っていた。

 俺は、彼女のその健気さに、胸が熱くなるのを感じた。


「ああ、約束する。必ず帰ってくる。俺の居場所は、響の隣だけだからな」


 俺は彼女の冷たい手を、両手で包み込むように握りしめた。


 翌日の放課後。俺は響に「少しだけ、話をしてくる」と告げ、一人で音楽科の校舎へと足を踏み入れた。普通科の生徒である俺にとって、そこは完全なアウェーだ。すれ違う生徒たちの、訝しげな視線が突き刺さる。


 特別練習室と書かれた、重厚な扉の前で、一度深呼吸をする。そして、意を決してドアをノックした。

「どうぞ」という、凛とした声が聞こえ、俺はゆっくりと扉を開けた。


 部屋の中は、外の喧騒が嘘のような、静謐な空気に満ちていた。

 防音壁に囲まれた広々とした空間。その中央に、漆黒の宝石のような輝きを放つ、一台のグランドピアノが鎮座していた。スタインウェイのフルコンサートグランド。世界最高峰のピアノだ。響の部屋にあるピアノとは、格が違う。


 そして、そのピアノの前に、天音蓮は静かに座っていた。

 俺の姿を認めると、彼女は満足げに、しかしどこか挑発的に微笑んだ。


「よく来たわね、調律師くん。あなたが来ると、信じていたわ」

「……何の用だ。手短に頼む」

「そう急がないで。まずは、私の音を聴いていただきましょうか。あなたに、本物の音楽というものを教えてあげる」


 蓮はそう言うと、鍵盤の上にすっと指を置いた。

 その瞬間、彼女の纏う空気が一変する。穏やかな女王から、音楽の全てを支配する、絶対的な暴君へ。


 次の瞬間、部屋の空気が震えた。

 リストの『ラ・カンパネラ』。超絶技巧を要する、ピアノ史上屈指の難曲。

 その、あまりにも有名で、あまりにも困難なメロディが、蓮の指先から、まるでせせらぎのように、淀みなく紡ぎ出されていく。


 それは、完璧な演奏だった。

 一音のミスも、一瞬の迷いもない。楽譜に書かれた全ての音符が、作曲者の意図した通りに、寸分の狂いもなく再現されていく。技術的には、俺が今まで聴いたどんなピアニストよりも上かもしれない。

 だが、その完璧すぎる音は、どこか人間味に欠け、冷たい機械が奏でているかのようにも感じられた。


 数分間の圧巻の演奏が終わり、最後の音が静寂の中に溶けていく。

 蓮は、満足げに俺の方を振り返った。


「どうだったかしら? これが、私の音楽よ」

「……ああ。すごい演奏だった。完璧だ」


 俺の素直な感想に、蓮はつまらなそうに眉をひそめる。


「それだけ? もっと、気の利いた批評はないのかしら。あなたのその『耳』なら、何か感じたはずでしょう?」

「……そうだな」


 俺は、スタインウェイのピアノへと歩み寄った。そして、その美しいボディにそっと触れる。


「3弦のG#の音、少しだけ鳴りが硬いな。今日の湿度だと、フェルトが湿気を吸って、ハンマーの動きがコンマ数ミリ鈍くなってる。だから、他の音に比べて、ほんの僅かに、音が死んで聞こえる」


 俺の指摘に、蓮の紫の瞳が、驚きに見開かれた。

 彼女は、信じられないというように、俺が指摘したG#の音を、ポーン、と一つだけ鳴らしてみる。

 もちろん、普通の人間には、その違いなど絶対に分からないだろう。

 だが、蓮ほどのピアニストなら、そして、俺ほどの調律師なら、その僅かな違和感を、確かに感じ取ることができる。


「……あなた、本当に面白いわね」


 蓮は、初めて、心の底から楽しそうな、少女のような無邪気な笑顔を見せた。

 それは、昨日までの氷のような女王の姿からは、想像もつかない表情だった。


「気に入ったわ、音無奏くん。あなた、私の専属調律師になりなさい」

「断る」


 俺は、間髪入れずに答えた。


「俺は、響の専属調律師だ。他の誰のピアノも、調律する気はない」

「なぜ? 私のピアノを調律すれば、あなたのその才能は、もっと磨かれる。世界最高のピアニストと、世界最高の調律師。最高の組み合わせだとは思わない?」

「思わないな」


 俺は、きっぱりと首を横に振った。


「あんたのピアノは、完璧すぎる。まるで、寸分の狂いもない機械のようだ。だが、そこには『心』がない。俺が聴きたいのは、機械の音じゃない。人の心の音だ」

「……心の、音?」

「ああ。響のピアノは、不器用で、間違えることもある。でも、そこには、喜びも、悲しみも、怒りも、彼女の心の全てが詰まってる。俺は、そんな人間臭くて、温かい音が好きなんだ。あんたの、誰の心にも届かない、冷たい完璧さには、興味ない」


 俺は、亡き祖父の言葉を思い出していた。

『ピアノはな、正直なんだ。弾き手の心を全部映しちまう。だから、ピアノを大切にできないやつは、いい演奏なんてできねえんだ』

 蓮のピアノは、完璧に管理されている。だが、彼女は、ピアノを自分の才能を見せつけるための『道具』としか見ていない。そこに、心を通わせようという意志がない。


 俺の言葉に、蓮は、初めて、狼狽の色を見せた。

 彼女が、今まで誰にも指摘されたことのない、彼女の音楽の、唯一にして最大の欠点。それを、俺はいとも容易く見抜いてしまったのだ。


「……面白い。本当に、面白い男だわ、あなたは」


 蓮は、しばらく黙り込んだ後、再び、不敵な笑みを浮かべた。


「いいでしょう。今は、あなたをあのお姫様のおもちゃとして、貸しておいてあげる。でも、覚えておきなさい。あなたのその才能は、いずれ、私の完璧な音を求めることになる。その時が来たら、迎えに来てあげるわ」


 それは、敗北宣言のようでもあり、新たな宣戦布告のようでもあった。

 俺は、何も言わずに彼女に背を向け、特別練習室を後にした。


 扉を閉める直前、俺は、もう一度だけ彼女の方を振り返った。

 蓮は、ピアノの前に座り、ただ一人、静かに鍵盤を見つめていた。

 その横顔は、絶対的な女王ではなく、自分の音楽に、初めて疑問を抱いた、一人の孤独な少女のように見えた。


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