第33話:女王の興味と、姫の嫉妬
天音蓮という名の嵐が去った後も、廊下の空気は凍りついたままだった。生徒たちの好奇と畏怖の視線が、遠巻きに俺たちへと突き刺さる。
俺の腕の中では、響が、か細い呼吸を繰り返しながら、小刻みに震え続けていた。彼女の体は氷のように冷え切り、その顔からは血の気が失せている。俺は込み上げてくる怒りを必死に心の奥底に押し込め、今はただ、彼女を安心させることだけを考えた。
「……大丈夫だ、響。あんな奴の言うこと、気にするな」
俺がそう言って背中をさすると、響は弱々しく首を横に振った。その動きさえ、ひどく億劫そうだ。
「ううん……」
「響?」
「彼女の言う通りだから……。今の私は、奏くんに守られて、ぬるま湯に浸かっているだけ……。ピアノも、おままごとみたい……」
その声は、か細く、自己嫌悪で震えていた。天音蓮の言葉は、響が心のどこかで感じていた不安、その一番柔らかい部分を的確に、そして容赦なく刺し貫いたのだ。
違う、と否定するのは簡単だ。だが、今の彼女には、どんな慰めの言葉も届かないだろう。俺は言葉に詰まり、ただ黙って彼女を支え、人通りがなくなった廊下をゆっくりと歩いて、彼女の部屋まで送り届けた。
部屋に入っても、重苦しい空気は晴れない。
響はソファに力なく座り込み、膝を抱えて俯いてしまった。その姿は、俺が初めてこの部屋を訪れた日の、絶望に満ちていた彼女の姿と痛々しく重なって見える。あの時はゴミの山に囲まれていたが、今は綺麗に片付いている分、彼女の孤独が一層際立って感じられた。
俺は、キッチンに立つと、温かいミルクティーを淹れて彼女の前に置いた。甘い香りが、少しでも彼女の心を和らげてくれれば、という一心で。
「響。俺は、今の響の音が、世界で一番好きだ」
俺は、彼女の向かいに座り、まっすぐにその瞳を見つめて言った。
「技術がどうとか、過去がどうとか、そんなのは関係ない。響が、俺のために、俺のことだけを思って奏でてくれる、あの不器用で、優しくて、温かい音が、俺は好きなんだ。誰が何と言おうと、それだけは絶対に変わらない」
俺の言葉に、響の瞳が潤み、揺れる。その大きな瞳から、こらえきれなくなった涙が、ぽろり、と一筋こぼれ落ちた。
「……奏、くん」
「だから、あんな奴の言葉で、自分を嫌いにならないでくれ。俺が好きな響を、響自身が否定しないでくれ」
それは、俺からの必死の願いだった。
響は、嗚咽を漏らしながら、こくり、こくりと何度も頷く。俺は彼女の隣に移動し、その小さな頭を、壊れ物を扱うように優しく撫で続けた。
だが、この時の俺は、まだ気づいていなかった。
響を苛んでいる感情が、天音蓮にプライドを傷つけられたことによる、単なる自己嫌悪だけではなかったことに。
彼女の心には、今まで経験したことのない、新しい嵐が吹き荒れ始めていたのだ。
(奏くんは、私の音を好きだと言ってくれる。でも、天音さんは、奏くんの『才能』に気づいた……)
響は、俺の胸に顔をうずめ、温かいミルクティーの湯気を感じながら、必死に思考を巡らせていた。
(『彼女を骨抜きにした調律師』……。天音さんは、奏くんのことを、そう言った。私のことなんて見ていなかった。彼女が見ていたのは、奏くんだけ……)
それは、嫉妬だった。
自分ではない誰かが、自分の知らないところで、自分の大切な人と、音楽という共通言語で深く繋がってしまうかもしれないという、焦燥と恐怖。
天音蓮は、響にとって、初めて現れた『恋のライバル』だった。
(もし、奏くんが、天音さんの完璧なピアノに興味を持ってしまったら? 私の、こんな不完全な音楽じゃなくて、彼女の音楽の方が、奏くんの才能を刺激するんじゃないかしら……?)
考えれば考えるほど、底なしの沼に沈んでいくような感覚。自分は、奏の才能にとって、足枷にしかならないのではないか。
その不安が、毒のように、響の心を静かに、しかし確実に蝕んでいく。
翌日、学校に来た響は、どこか上の空だった。
俺がいくら「大丈夫だ」と励ましても、その表情は晴れない。時折、何かを考え込むように遠くを見つめている。天音蓮という存在が、俺たちの間に、見えない壁を作ってしまったかのようだった。
そして、放課後。事件は再び起きた。
昨日と同じ、夕暮れの廊下。俺と響が並んで歩いていると、昨日と同じように、天音蓮が俺たちの前に立ちはだかったのだ。
「……!」
響の体が、びくりと強張る。俺は、反射的に彼女を背中にかばい、敵意をむき出しにして蓮を睨みつけた。
「何の用だ。昨日、もう現れるなと言ったはずだ」
だが、今日の蓮は、昨日とは少し違った。
彼女は、背後にいる響には一瞥もくれず、その紫の瞳で、俺だけをまっすぐに見つめていた。その瞳には、昨日のような侮蔑の色はなく、純粋な好奇心と、獲物を見つけた獣のような獰猛な光が宿っている。
「あなたに用があるの、音無奏くん」
「俺に?」
予想外の言葉に、俺は眉をひそめる。
蓮は、挑発するような、それでいてどこか楽しむような、不思議な笑みを浮かべた。
「ええ。あなたの『音』、少し聴かせてくれないかしら」
「……は?」
「あなたのその耳、そして、ピアノを調律するというその才能。それが、どれほどのものか、この私が見極めてあげる」
その言葉は、あまりにも傲慢で、独善的だった。だが、それ以上に、彼女が俺の持つ才能に、純粋な興味を抱いていることが伝わってきて、俺は背筋がぞくりとするのを感じた。
俺の背後で、響が息をのむ気配がする。
彼女が昨日から抱いていた最悪の懸念が、今、目の前で現実になろうとしていた。
自分を素通りし、恋人である奏にだけ、音楽家としての興味を示す女王。
その残酷な光景は、響の心を、嫉妬の炎で激しく焼き尽くしていた。
「断る。俺の音は、響のためだけにある」
俺は、きっぱりとそう言い放った。響の手を強く握り、俺の決意を伝える。
だが、蓮は全く動じない。それどころか、ますます面白そうに、その紫の瞳を細めた。
「そう。……でも、あなたは来ることになるわ。あなたのその才能は、あんなお姫様ごっこだけで満足できる器じゃないもの」
彼女は、それだけ言うと、またしても優雅に踵を返す。
去り際に、俺にだけ聞こえるような、小さな声で呟いた。
「放課後、音楽科の特別練習室で待っているわ。……賢いあなたなら、来る意味がわかるはずよ」
それは、拒否できない、女王からの招待状だった。
彼女の言葉は、俺の調律師としてのプライドを、そして響への想いを、同時に試しているかのようだった。
俺は、響の震える手を握りしめることしかできない。
女王の興味と、姫の嫉妬。二つの感情が、俺を挟んで激しく火花を散らす。
俺たちの関係は、新たな不協和音を奏で始めていた。穏やかだったプレリュードは終わり、嵐を呼ぶコンチェルトの、その第一楽章が、今、幕を開けたのだ。




