表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

34/43

第32話:邂逅、そして侮蔑の眼差し


 文化祭の準備が本格化し、校内はどこか浮き足立った熱気に包まれていた。

 俺と響のクラスで決まった「ピアノBGM付き本格カフェ」の企画も、順調に準備が進んでいる。響が作曲したBGMのデモ音源はクラスメイトにも好評で、彼女の表情にも、以前よりずっと柔らかな笑みが浮かぶことが多くなった。


 その日の放課後も、俺たちは文化祭の装飾準備を終え、二人並んで廊下を歩いていた。他愛もない会話を交わしながら、夕暮れの光が差し込む廊下を歩く。もうすっかり、俺たちの日常になった穏やかな時間だ。


「今日の買い出し、重かったでしょう。奏くん、ありがとう」

「別に、これくらいどうってことないって。それより響こそ、細かい作業ばっかりで疲れただろ」

「ううん、楽しかった。みんなと何かを作るのって、こんなに楽しいのね」


 はにかむように笑う響。その笑顔を見ているだけで、俺の心は温かいもので満たされていく。

 このまま二人で彼女の部屋に帰り、また一緒に夕食を食べる。そんな当たり前の幸せが、ずっと続けばいい。俺が、そう願い始めた、その時だった。


 ふと、前方の空気が変わった。

 それまでざわついていた廊下が、水を打ったように静まり返る。生徒たちの視線が、ある一点に集中し、モーゼの十戒のように、自然と道が左右に開かれていく。


 その道の先、俺たちの進路を塞ぐようにして、一人の女子生徒が静かに立っていた。


「……!」


 隣を歩く響が、息をのむのが分かった。俺もまた、目の前の人物から目が離せずにいた。


 腰まで届く、艶やかで完璧な黒髪のストレート。

 白いブラウスは少しのシワもなく、その立ち姿には一切の無駄がない。

 そして何より印象的なのは、切れ長で理知的な、紫色の瞳。その瞳は、周囲の喧騒などまるで意に介していないかのように、ただ静かに、俺たちのことだけを見据えていた。


 普通科の生徒とは明らかに違う、近寄りがたいほどの気品と、絶対的な自信からくるカリスマ。

 音楽科の『氷の女王』、天音蓮あまね れん

 噂には聞いていたが、これほどの存在感を放つ人物だったとは。


 彼女は、俺には目もくれず、その紫の瞳で、隣に立つ響だけを射抜いていた。

 その視線は、まるで獲物を品定めする猛禽類のようだ。


「久しぶりね、月宮響」


 凛、と静寂に響き渡る、鈴の音のような声。だが、その響きは氷のように冷たかった。

 再会の挨拶にしては、あまりにも敵意がこもりすぎている。


「あ……あまね、さん……」


 響の声が、か細く震える。その顔からは、さっきまでの血の気が嘘のように引き、真っ白になっていた。俺の後ろに、隠れるようにして半歩下がる。


 天音蓮は、そんな響の弱々しい反応を、心底つまらなそうに一瞥した。そして、その唇が、残酷な形に歪む。


「ずいぶん、つまらない音を出すようになったものだわ」


 その言葉は、ナイフのように鋭く、響の心を抉った。

 つまらない音――。それは、響が奏でる、ささやかで、しかし確かな希望の光だったはずの音。奏と出会い、少しずつ取り戻してきた、彼女だけの優しいメロディ。

 それを、天音蓮は、たった一言で、無価値なものだと断じたのだ。


「なっ……!」


 俺は、怒りで我を忘れた。

 響を守るように一歩前に出ると、目の前の『女王』を睨みつける。


「あんたに、響の何がわかるんだ!」


 俺の敵意を真っ向から受けても、天音蓮の表情は一切変わらない。その紫の瞳が、初めて俺を捉えた。値踏みするような、冷たい視線。


「あなたね。噂の、調律師くんというのは」


 彼女は、俺の怒りなど取るに足らないとでも言うように、ふ、と鼻で笑った。


「なるほど。こんな凡庸な男の、生ぬるい優しさに浸っているから、あんな牙の抜けた音しか出せなくなったのね。……実に、嘆かわしいわ」


 その言葉は、響だけでなく、俺の存在そのものをも否定していた。

 俺が響と共に過ごしてきた時間、分かち合った想い、その全てを、彼女は土足で踏み躙ったのだ。


 腹の底から、冷たい怒りが湧き上がってくるのを感じた。

 こいつだけは、絶対に許せない。


「……謝れ」

「謝る? 私が、誰に?」

「響にだ! 今すぐ、その言葉を取り消して謝れ!」


 俺が声を荒げても、彼女は眉一つ動かさない。それどころか、その瞳には、明確な侮蔑の色が浮かんでいた。


「事実を述べたまでよ。……ねえ、月宮響。あなたは、それでいいの? かつて神童とまで呼ばれたあなたが、こんな男の影に隠れて、おままごとのような音楽で満足しているなんて。あなたの才能が、泣いているとは思わない?」


 その言葉は、悪魔の囁きだった。

 響が、最も触れられたくないであろう、過去の栄光と現在の自分とのギャップ。その一番痛い部分を、容赦なく抉り出す。


「やめろ……」


 響が、震える声で懇願する。その瞳は恐怖に濡れ、今にも泣き出してしまいそうだった。

 俺は、彼女の肩を強く抱き寄せ、天音蓮から庇う。


「もう、お前と話すことはない。二度と、俺たちの前に現れるな」


 俺は、最大限の敵意を込めて、そう言い放った。

 だが、天音蓮は、そんな俺たちの姿を、まるで面白い見世物でも見るかのように、楽しげに眺めているだけだった。


「……そう。残念だわ。少しは、骨のあるピアニストに返り咲いたのかと期待していたのだけれど」


 彼女は、心底がっかりしたというように、わざとらしくため息をつく。

 そして、最後に、もう一度だけ響に視線を送った。それは、憐れみと、軽蔑が入り混じった、残酷な眼差しだった。


「せいぜい、文化祭ごっこ、楽しみなさい。……堕ちたお姫様」


 その言葉を残し、彼女は静かに背を向けた。

 開かれた道を、まるで女王のように優雅に歩き去っていく。その黒髪が、夕日を浴びて、一瞬だけ赤く燃え上がったように見えた。


 彼女が完全に姿を消しても、廊下の静寂はしばらく解けなかった。

 俺の腕の中では、響が、か細い呼吸を繰り返しながら、小刻みに震えている。


 大丈夫だ、と声をかけてやりたかった。

 だが、どんな言葉も、今の彼女には届かないだろう。

 天音蓮が残していった侮蔑の言葉は、あまりにも深く、そして鋭く、俺たちの穏やかだった日常に突き刺さっていた。


 波乱の序曲は、今、確かに奏でられたのだ。

 逃れることのできない、不協和音となって。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ