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第31話:噂は女王の耳に届く


 静寂が、その部屋の唯一のルールだった。


 埃一つないマホガニーのデスク。完璧な角度で積まれた書類の山。そして、磨き上げられた窓から差し込む西日が、その部屋の主の影を、床に長く伸ばしている。


 北棟の最上階に位置する、生徒会室。

 その玉座に君臨するのは、天音蓮あまね れんその人だった。


 腰まで届く、濡れたような黒髪。切れ長の、理知的な紫の瞳。モデルのようにしなやかな長身痩躯。その全てが、一切の無駄なく調和し、近寄りがたいほどの気品とカリスマ性を放っている。

 彼女がペンを走らせる、サラサラという微かな音だけが、部屋の静寂を支配していた。


 音楽科の特待生にして、生徒会長。

 その完璧すぎる存在感から、彼女は畏怖と憧れを込めて、こう呼ばれていた。

『氷の女王』、と。


 コン、コン、と控えめなノックの音が、静寂を破った。


「入れ」


 蓮は、視線を書類から動かすことなく、短く応える。

 入ってきたのは、生徒会で書記を務める、地味な印象の男子生徒だった。


「失礼します、会長。例の件、少しだけ情報が集まりました」

「……聞こう」


 蓮は、ようやくペンを置くと、指を組んで書記の報告を促した。その仕草一つにも、女王の風格が漂う。


「はい。普通科2年の文化祭の出し物ですが、どうやら『ピアノの生演奏が流れるカフェ』に決まったようです」

「ほう。生演奏……」


 蓮の紫の瞳が、初めて興味深そうに細められた。


「それで? ピアニストは誰が務めることになったのだ?」

「いえ、それが……少し情報が錯綜しておりまして。当初は、クラス対抗の合唱コンクールで、月宮響が伴奏を務めるという案が出ていたようなのですが……」


「――月宮、響」


 書記の言葉を遮り、蓮がその名前を静かに繰り返した。

 その声には、ほんの僅かだが、確かに感情の色が乗っていた。

 それは、懐かしむような、それでいて、獲物を見つけた肉食獣のような、複雑な響き。


 書記は、蓮の纏う空気が一瞬で変わったことに気づかず、報告を続ける。


「はい。ですが、その案は同級生の反対で立ち消えになったと。代わりに、月宮はステージには立たず、カフェで流すBGMの作曲と編曲を担当することになった、とのことです」

「……そうか。作曲、ね」


 蓮は、つまらなそうに呟くと、再び書類へと視線を落とした。

 その反応に、書記は少しだけ拍子抜けする。


「あの、会長? 月宮響といえば、かつて会長とコンクールで競い合ったこともある、天才少女ピアニストだったと聞いていますが……」

「過去の話だ」


 蓮は、ぴしゃりと言い放った。その声は、氷のように冷たい。


「才能に溺れ、努力を怠り、今や人前でピアノを弾くことさえできなくなった、ただの堕ちた凡人。興味はない」


 その言葉とは裏腹に、彼女の指先は、デスクの上でピアノを弾くような、神経質な動きを繰り返していた。


 彼女は、忘れたことなどなかった。

 幼い頃、初めて聴いた月宮響のピアノの音色を。

 技術的には未熟だった。だが、その音には、聴く者の心を鷲掴みにするような、圧倒的な引力があった。

 蓮が、生まれて初めて『嫉妬』という感情を覚えた瞬間だった。


 以来、蓮は月宮響を目標とし、血の滲むような努力を重ねてきた。

 全ては、あの自由で、奔放な音を奏でる天才に、追いつき、追い越すために。


 だというのに。

 当の本人は、いつの間にか表舞台から姿を消し、ピアノから逃げ、平凡な高校生というぬるま湯に浸かっている。

 その事実が、蓮には許せなかった。


「……報告は、それだけか?」

「あ、いえ、もう一つ。その、月宮響の件で、少し気になる噂が」

「なんだ」

「彼女には、最近、とても親しい男子生徒がいる、と。普通科の、音無奏という生徒です」


「――音無、奏」


 また、知らない名前が出てきた。

 蓮は、わずかに眉をひそめる。


「なんでも、その音無という生徒が、月宮がピアノ伴奏をすることに、クラスで唯一、猛反対した張本人だそうで。二人は、付き合っているのではないかと、もっぱらの噂です」

「……ふぅん」


 蓮は、初めて、心の底から面白そうだという表情を見せた。

 あのプライドの高い『氷の姫君』が、心を許す相手。

 そして、彼女を人前から遠ざけようとする、謎の男子生徒。


「その男、何者だ?」

「それが……詳しいことはまだ。ただ、一つだけ、奇妙な情報が。彼は、ピアノの調律師の孫だ、と」


「――調律師」


 その言葉が、蓮の中で、全てのピースを繋ぎ合わせた。


 堕ちた天才ピアニスト。

 彼女を守るように立ち回る、謎の男子生徒。

 そして、その男の正体は、調律師の孫。


「……なるほど。そういうことか」


 蓮は、全てを理解したように、深く、そして満足げに頷いた。

 彼女の脳裏に、一つの仮説が浮かび上がる。

 月宮響という、壊れてしまった美しい楽器。その音を、自分だけのものにしようと調律する、身の程知らずの調律師。


「面白い」


 蓮の唇から、吐息のような笑みが漏れた。

 その紫の瞳には、退屈な日常を壊してくれそうな、新しいおもちゃを見つけた子供のような、残酷なまでの好奇心の光が宿っていた。


「その調律師くんのこと、詳しく調べておけ。音楽の才能、家族構成、月宮響との正確な関係。どんな些細な情報でもいい。すべて私に報告しろ」

「は、はい! かしこまりました!」


 書記が慌てて敬礼し、足早に生徒会室を退出していく。

 一人残された部屋で、蓮はゆっくりと椅子から立ち上がると、窓の外に広がる夕暮れの空を眺めた。


「月宮響……。そして、音無奏……」


 その名前を、まるで吟味でもするかのように、舌の上で転がす。


「君たちが奏でる不協和音、この私が、確かめずにはいられないわね」


 女王の退屈は、終わりを告げた。

 波乱のプレリュードは、すでに奏でられ始めている。

 その音色が、やがて恋とピアノの、激しいコンチェルトへと発展していくことを、まだ誰も知らなかった。


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