第30話:君を守るための、俺の調律
昨夜の嵐が嘘のような、静かな朝だった。
俺の腕の中で泣き疲れて眠ってしまった響をベッドに運び、俺はほとんど一睡もできないまま、自分の部屋で朝を迎えた。
頭の中は、これからすべきことでいっぱいだった。
響を、どう守るか。クラスメイトたちに、どう説明するか。
答えは、もう決まっている。
俺は、響の分の朝食――消化のいい温かいスープと、柔らかいパンを準備すると、彼女の部屋のチャイムを鳴らした。
すぐに出てきた響は、まだ目元が少し赤く腫れていたが、その表情は不思議と落ち着いていた。
「おはよう、奏くん」
「ああ、おはよう。食べれそうか?」
「うん……。ありがとう」
二人で静かに食卓につく。
響は、俺が何かを言うのを、待っているようだった。
「響。今日のクラスでの話は、全部俺に任せてくれないか」
「でも……」
「大丈夫。お前は、ただ黙って座っててくれればいい。絶対に、お前に恥をかかせたり、辛い思いをさせたりはしない」
俺が力強く言うと、響は不安そうに揺れていた瞳で、じっと俺を見つめ返した。
そして、こくりと小さく頷く。
その頷きは、彼女の全てを俺に預けるという、信頼の証のように思えた。
†
教室の空気は、重く、気まずかった。
昨日のホームルームでの一件が、クラス全体に気まずい影を落としている。
響は、何事もなかったかのように静かに読書をしていたが、その横顔がいつもよりこわばっているのが、俺にはわかった。
やがて、ホームルームが始まり、担任が文化祭の件を切り出した。
「――というわけで、昨日の話だが、月宮さんのピアノ伴奏の件、どうなった?」
その言葉を待っていた。
俺は、すっと静かに立ち上がった。
クラス中の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
驚き、戸惑い、そして少しの非難。
普段、クラスで目立つことのない俺の行動は、それだけで異質だった。
「先生、そしてみんなに、提案があります」
俺は、一度大きく息を吸い、クラス全体を見渡した。
響の、不安そうな視線を感じる。大丈夫だ、俺を信じろ。
「昨日の、響にピアノ伴奏を頼むっていう案。みんなが響のピアノを聴きたいって思ってくれたこと、すごく感謝してる。でも、今の彼女に、みんなの前で演奏させるのは、少しだけ、負担が大きいんじゃないかと思う」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
響のトラウマに直接触れることなく、ただ、彼女の状態を代弁する。
「だから、合唱コンクールへの出場はやめて、別の企画を提案したい」
ざわ、と教室が揺れる。
俺の言葉に、昨日、最初にピアノ伴奏を提案した美桜さんが、申し訳なさそうな顔で俯いた。
「俺たちがやるのは、『ピアノの生演奏が流れる、本格的なカフェ』だ」
「え……? でも、生演奏は負担になるんじゃ……」
誰かの疑問の声に、俺は首を横に振った。
「主役は、響じゃない。響が作った『音楽』だ」
「音楽……?」
「ああ。響には、カフェで流すためのBGMを作ってもらう。作曲と、編曲を。俺たちのクラスだけの、完全オリジナル曲だ。それを、当日は高音質のスピーカーで流す。人前で弾くプレッシャーを感じさせずに、彼女の最高の才能を、みんなに披露する方法だ」
俺の提案に、クラスは静まり返った。
誰もが、その意図を測りかねている。
その沈黙を破ったのは、美桜さんだった。
「……そっか。私、全然、響の気持ち、考えられてなかった……。ごめんね、響!」
彼女は、響に向かって深く頭を下げた。
そして、顔を上げると、その瞳を輝かせて言った。
「でも、そのカフェ、すっごくいいと思う! 響が作った曲が流れるカフェなんて、絶対お客さん呼べるよ! 私、賛成!」
その声が、起爆剤になった。
「確かに、その方が月宮さんの負担にならないかもな」
「ていうか、オリジナルのBGMが流れるカフェって、普通にお洒落じゃね?」
「やろうぜ、それ! 絶対楽しいって!」
俺の隣で、隼人も「奏のやつ、たまには良いこと言うじゃねえか」とニヤリと笑っている。
重く沈んでいた空気は、一瞬にして、新しい企画への期待と興奮に変わっていた。
クラスが、再び一つになった瞬間だった。
俺は、そっと響の方に視線を送る。
彼女は、俯いたまま、動かない。
だが、その机の上に、ぽつ、ぽつ、と透明な雫が落ちているのが見えた。
それは、昨夜の絶望の涙とは違う。
自分を守ってくれた俺への、そして、自分を理解してくれたクラスメイトたちへの、温かい感謝の涙だった。
君を守るための、俺の調律。
それは、狂ったピアノの弦を直すことだけじゃない。
君が君らしく輝けるように、周りの環境を、雑音を、綺麗に整えてやること。
それもまた、世界でたった一人の、専属調律師の仕事なのだから。




