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第29話:蘇るトラウマと、震える指先


 あの後、教室がどうなったのか、俺はよく覚えていない。


 俺が反対の声を上げると、クラスの熱狂は一瞬にして冷め、困惑した空気が支配した。

 俺は「響の体調を考えろ」「プレッシャーになる」とかなんとか、必死に理由を並べたてた気がする。隼人や美桜さんが「音無の言うことにも一理ある」「いったん落ち着こう」と助け舟を出してくれたおかげで、その場は何とか収まった。


 だが、当事者である響は、ホームルームが終わるまで、まるで魂が抜けた人形のように、ただ静かに席に座っているだけだった。


 そして、その夜。

 響の部屋は、凍てつくような静寂に包まれていた。


 テーブルの上には、俺が作った温かいはずのクリームシチューが、すっかり冷めてしまっている。響はソファの隅で膝を抱え、顔をうずめたまま、ぴくりとも動かない。


「響……」


 俺が声をかけても、返事はなかった。

 ただ、その肩が小刻みに震えているのだけが見える。


 昼間の出来事が、彼女の心にどれほど深い傷を負わせたか。それは、痛いほどわかった。

 俺とのリハビリで、ようやく築き上げ始めた自信という名の小さな城が、クラスメイトたちの善意という名の津波に、無残にも破壊されてしまったのだ。


「無理に食べなくてもいい。でも、少しだけでいいから、話をしないか?」


 俺は、できるだけ優しい声で語りかける。

 彼女の隣に、そっと腰を下ろした。


 その瞬間だった。


「……むり」


 響の唇から、か細い、悲鳴のような声が漏れた。


「無理よ……やっぱり、私には弾けない……!」


 顔を上げた彼女の瞳は、絶望の色に染まっていた。

 堰を切ったように、大粒の涙が次から次へと溢れ出してくる。


「みんなが、私を見てた……! あの時と、同じ……!」


 彼女の脳裏に、悪夢が蘇る。

 コンクールのステージ。一身に浴びる、期待のスポットライト。そして、たった一つのミスタッチが引き起こした、聴衆の失望のため息。


「ひっ……ぅ、ぁ……」


 呼吸が、次第に浅く、速くなっていく。過呼吸だ。

 彼女の体は、あの日の恐怖を、鮮明に思い出していた。


『なんてザマなの』

『私のキャリアに傷をつけてくれたわね』

『この、出来損ないが』


 幻聴が、彼女の耳元で囁く。

 世界で一番、愛されたかった母親からの、呪いの言葉。


「いや……いやっ……!」


 響は、自分の耳を塞ぐように、強く頭を振った。

 その姿は、あまりにも痛々しくて、俺は胸が張り裂けそうになった。


 もう、見ていられなかった。


「響っ!」


 俺は、パニックに陥る彼女の体を、強く、強く、抱きしめた。


「大丈夫だ。俺がいる。ここにいる」


 耳元で、何度も、そう繰り返す。

 俺の腕の中で、響の体は、まるで嵐の中の小舟のように、激しく震えていた。


「大丈夫。大丈夫だから」


 俺は、彼女の背中を、ゆっくりと、何度もさすってやる。

 自分の心臓の音を、彼女に聞かせるように。

 俺の体温で、彼女の心の氷を、少しでも溶かせるように。


 怒りが、腹の底から込み上げてきた。

 彼女をここまで追い詰めた、顔も知らない母親に。

 そして、彼女の心の叫びに気づかず、無邪気に期待を寄せてしまったクラスメイトたちに。

 何より、彼女のトラウマの深さを理解していながら、昼間の教室で、もっとうまく立ち回れなかった自分自身に。


 だが、今は怒っている場合じゃない。

 俺がすべきことは、たった一つ。

 この、腕の中で震える、大切な専属ピアニストを、守り抜くことだ。


 俺は、覚悟を決めた。

 もう、誰にも、こいつを傷つけさせたりしない。

 たとえ、世界中を敵に回したって。


「大丈夫だ、響」


 俺は、さっきよりも、ずっと強く、そして固い意志を込めて、彼女に告げた。


「俺が、絶対に、君を守るから」


 その言葉が届いたのか、腕の中の震えが、ほんの少しだけ、和らいだような気がした。

 響は、俺の胸に顔をうずめたまま、子供のように、声を上げて泣きじゃくった。


 その悲しいノクターンを、俺は、ただ黙って、受け止め続けた。

 夜が明けるまで、あと、もう少し。


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