第28話:文化祭、その名は波乱の序曲
嘘と涙の雨が上がり、俺と響の間にできた小さな水たまりは、すっかり乾いていた。
ううん、乾いたんじゃない。雨が降ったことで、かえって俺たちの心の土は固まったんだ。もう、些細なことで揺らいだりしない、固い絆となって。
そんな確信を胸に迎えた月曜日の学校は、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
それもそのはず。教室の黒板には、デカデカとこう書かれている。
『文化祭まで、あと一ヶ月!』
「ついに来たわね、文化祭!」
「今年はどんな出し物にするー?」
「やっぱ、食べ物系がよくない? クレープとか!」
ホームルームが始まる前の教室は、年に一度のお祭りを前にした高校生たちの、期待と興奮で満ち溢れていた。
その熱気は、今までクラスの輪から一歩引いていた響にも、確かに伝わっているようだった。
「響! 今年は、うちらも何かガチでやらない?」
声をかけてきたのは、太陽みたいな笑顔がトレードマークの橘美桜さんだ。
先日の嘘の一件以来、響は彼女たちと、より自然に話せるようになっていた。
「そうね。みんなで楽しめるものがいいわ」
そう言って微笑む響の顔には、もう以前のような無理した笑顔の仮面はない。
俺だけが知っていたはずの、柔らかな素顔が、少しずつクラスメイトたちの前でも見せられるようになっている。
その光景が、俺は誇らしくて、やっぱり少しだけ寂しかった。
「よーし、席に着けー。今から文化祭の出し物について、ホームルームを始めるぞー」
担任の気の抜けた号令で、俺たちはそれぞれの席に着く。
教壇に立ったクラス委員長が、緊張した面持ちで口火を切った。
「えー、それでは、文化祭の出し物について、何か意見のある人はいますか?」
その言葉を皮切りに、クラス中から次々と意見が飛び交う。
「はいはーい! 定番だけど、お化け屋敷やりたい!」
「えー、準備大変だよー。うちはメイドカフェがいいなー」
「男子が執事やればよくない?」
「それだ!」
まるで嵐のような意見の応酬。
教室のボルテージは、早くも最高潮に達していた。
俺は、そんなクラスの喧騒を、少し離れた場所から微笑ましく眺める。響も、美桜さんたちと顔を寄せ合い、楽しそうに囁き合っていた。
このまま、何事もなく、平和な日常が続けばいい。
心の底から、そう願っていた。
だが、そんな俺のささやかな願いは、一人の純粋な善意によって、打ち砕かれることになる。
「はい! 私、提案があります!」
元気よく手を挙げたのは、美桜さんだった。
クラス中の視線が、一斉に彼女へと集まる。
「うちのクラスには、ピアノの天才がいるじゃないですか!」
その言葉に、俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
やめろ、と叫びそうになるのを、必死にこらえる。
美桜さんは、そんな俺の心境など知る由もなく、満面の笑みで続けた。
「だから、クラス対抗の合唱コンクールに出て、響にピアノ伴奏をしてもらいたいです!」
その、あまりにも純粋で、悪意のかけらもない提案。
それは、クラスの熱狂に、さらに油を注ぐことになった。
「うおおお! それ最高じゃん!」
「月宮さんのピアノ、聴きたすぎる!」
「ガチで優勝狙えるって!」
「響、お願い! 弾いてよ!」
クラスメイトたちの、期待に満ちた声、声、声。
その全てが、無数の矢となって、一人の少女へと突き刺さる。
俺は、恐る恐る、隣の席に座る響へと視線を向けた。
彼女は、凍りついていた。
さっきまでの柔らかな笑顔は、綺麗に消え去っている。
顔からは血の気が引き、その大きな蒼い瞳は、焦点が合っていないかのように、虚空を彷徨っていた。
カタカタと、小さく震える指先。浅く、速くなる呼吸。
――人前での、演奏。
それは、彼女が母親によって心を壊され、ピアノから離れる原因となった、最大のトラウマ。
俺とのリハビリで、ようやく、たった一人でノクターンを弾けるようになったばかりなのだ。
大勢の聴衆の前で、クラスの期待を一身に背負って演奏するなんて、今の彼女にできるはずがない。
「ひびき……?」
美桜さんが、響の異変に気づいて、心配そうに顔を覗き込む。
だが、その声は、もう響の耳には届いていなかった。
彼女の脳裏には、きっと、あの日の光景がフラッシュバックしている。
コンクールでの、たった一つのミスタッチ。
聴衆の失望のため息。
そして、母親からの、氷のように冷たい罵倒の言葉。
『私のキャリアに傷をつけてくれたわね、この出来損ないが』
呪いの言葉が、彼女の心を再び支配する。
鍵盤が、聴衆が、世界中が、自分を拒絶している。
そんな、絶望的な感覚。
「……ぁ」
響の唇から、声にならない悲鳴が、小さく漏れた。
その瞳から、光が消えかけている。
まずい。このままでは、彼女の心は、またあの暗闇に逆戻りしてしまう。
俺が、守らなければ。
俺の専属ピアニストを、絶望の淵から救い出さなければ。
俺は、勢いよく椅子から立ち上がっていた。
クラス中の視線が、何事かと俺に集まる。
だが、そんなことはどうでもよかった。
俺は、ただ一人、震える彼女のためだけに、声を張り上げた。
「その提案、俺は反対だ」
文化祭という名の、熱狂と喧騒。
それは、俺たちの穏やかな日常に、波乱の序曲を奏で始めていた。




