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第27話:心が痛む、たった一言の嘘


 冷たいドアを隔てて、俺と響はそれぞれの部屋にいた。

 たった数メートルの距離が、今は果てしなく遠い。


 昨日の放課後、響が美桜さんたちに嘘をついてから、俺たちの間には目に見えない壁ができてしまった。

 彼女は罪悪感から俺の顔をまともに見られず、俺はそんな彼女にどう声をかければいいのか分からない。


 夕食を届けに行っても、響はか細い声で「食欲がない」と断るだけ。

 ピアノの音も、昨夜から一度も聞こえてこなかった。

 静寂が、かえって彼女の苦しみを雄弁に物語っているようで、俺の胸は締め付けられるばかりだ。


 俺は、ただのクラスメイト。

 響が、自分の心を守るためについた嘘。

 その言葉が、まるで呪いのように俺たちの間に重くのしかかっていた。


 俺は、どうすればいい?

 このまま、彼女が立ち直るのを待つべきなのか。

 それとも、無理やりにでも、あのドアをこじ開けるべきなのか。


 答えの出ない問いを繰り返しながら、俺は無力感に苛まれていた。

 彼女の専属調律師だなんて、偉そうなことを言っておきながら、今の俺は、彼女の心の不協和音に触れることすらできずにいる。


 その夜、俺はほとんど眠ることができなかった。


     †


 翌日の放課後。

 俺は、意を決して響の部屋のチャイムを鳴らした。

 手には、温かいココアの入ったマグカップを二つ持っている。


 しばらくして、ドアがゆっくりと開いた。

 現れた響は、昨日よりもさらに憔悴しているように見えた。綺麗な顔には隈が浮かび、瞳からは輝きが失われている。


「……奏、くん」

「よう。ちょっと、話さねえか」


 俺は、努めて普段通りの口調で言った。

 響は、戸惑ったように視線を彷徨わせる。


「でも、私……」

「いいから。邪魔するぞ」


 俺は、半ば強引に部屋の中へと足を踏み入れた。

 響は、何も言えず、ただ俺の後ろをついてくる。


 部屋の中は、しんと静まり返っていた。

 グランドピアノの蓋は、固く閉ざされている。


 俺はローテーブルにマグカップを置くと、響に向き直った。

 彼女は、俯いたまま、自分の指先をじっと見つめている。


「響」


 俺は、できるだけ優しい声で、彼女の名前を呼んだ。


「俺との関係を隠すのが、そんなに辛いか?」


 びくり、と響の肩が震える。

 彼女は、かぶりを振った。


「ちがう……そうじゃ、なくて……」

「じゃあ、なんだよ。俺に言えないことか?」


 沈黙が、部屋を支配する。

 響の長いまつ毛が、小さく揺れていた。


 俺は、ため息を一つ吐くと、彼女の隣に腰を下ろした。

 そして、何も言わずに、その頭をそっと撫でる。

 シルクのように滑らかな髪が、指の間をすり抜けていく。


「……っ」


 響の体が、こわばるのが分かった。

 だが、俺は、そのまま優しく撫で続けた。


「言いたくないなら、言わなくていい」


 俺は、静かに語りかける。


「俺は、響の味方だから。お前がどんな嘘をつこうと、俺がお前の隣にいる事実は、変わらねえよ」


 それは、紛れもない俺の本心だった。

 彼女がどんな選択をしようと、俺が彼女を支える。

 そう、初めて会ったあの日に、心に決めたのだから。


 俺の言葉が、固く閉ざされていた彼女の心の扉を、少しだけ開いたのかもしれない。

 響の瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。


「……ごめんなさい」


 それは、ようやく絞り出したような、か細い声だった。


「私、嘘、ついた……。奏くんとのこと、ただのクラスメイトだって……」


 涙は、次から次へと溢れ出し、彼女の白い頬を伝っていく。


「奏くんとの関係を、知られたくなかったわけじゃないの。でも、みんなに注目されたら、奏くんに迷惑がかかるって思って……。それに、怖かった……。この幸せな時間が、壊れちゃうんじゃないかって……」


 嗚咽を漏らしながら、彼女は途切れ途切れに、自分の気持ちを告白してくれた。

 その言葉の一つ一つが、俺の胸を強く打つ。


 なんて馬鹿だったんだろう、俺は。

 彼女は、自分のためじゃない。俺のために、そして、俺たちの未来のために、一人で苦しんでいたんだ。


 俺は、泣きじゃくる響の体を、そっと引き寄せ、優しく抱きしめた。


「……ごめん。気づいてやれなくて、ごめん」


 俺にできるのは、ただ、謝ることだけだった。

 彼女の華奢な背中を、壊れ物を扱うように、ゆっくりとさする。


「迷惑なんかじゃねえよ。俺は、響の隣にいられるなら、なんだって平気だ」

「でも……!」

「それに、怖がる必要もねえ。俺たちの関係は、そんなことで壊れたりしねえよ。俺が、絶対に壊させない」


 俺は、響の体を少しだけ離すと、彼女の涙で濡れた瞳を、まっすぐに見つめた。


「だから、もう一人で抱え込むな。辛い時は、ちゃんと言え。俺は、お前の恋人なんだから」


 俺の言葉に、響は、こくりと小さく頷く。

 その瞳には、まだ涙が浮かんでいたが、そこには、確かな光が戻っていた。


 小さな亀裂は、塞がった。

 雨降って地固まる、というやつだろうか。

 この一件で、俺たちの絆は、また少しだけ、強くなったような気がした。


 俺は、テーブルの上の、すっかりぬるくなってしまったココアを指さして、笑った。


「さて、と。仲直りのしるしに、乾杯でもするか」


 響は、きょとんとした顔で俺を見ると、やがて、ふわりと花が綻ぶように、微笑んだ。


「……ええ、そうね」


 その笑顔が見れただけで、俺の心は、すっかり満たされていた。


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