第26話:屋上の密会と友人たちの鋭い視線
教室という名の戦場から解放される昼休み。
屋上もまた、俺と響にとって、誰にも邪魔されない聖域となっていた。
「はい、奏くん。今日の卵焼きは、ちゃんと普通の形にしてきたわ」
「はは、ありがとう。でも、俺はハートのやつも好きだけどな」
「……っ、もう、からかわないで!」
顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向く響。
そんな他愛もないやり取りができるこの場所とこの時間が、俺にとっては一日の中で最も心安らぐ瞬間だった。
二人で並んで弁当を広げ、とりとめのない話をする。昨日見たテレビ番組のこと、次の小テストのこと、隼人がまた部活でやらかしたこと。
そのほとんどは、数分後には忘れてしまうような、中身のない会話だ。
だが、それでよかった。
恋人同士の会話なんて、きっとそんなものなのだろう。
「……あ」
俺が弁当箱に最後の一口を詰め込もうとした時、響が小さな声を上げた。
見ると、彼女の白米の上に、俺が苦手なグリーンピースがちょこんと乗せられている。
「好き嫌いは、だめよ」
「いや、俺もう腹一杯だって」
「だめ。栄養バランスが偏るわ」
そう言って、母親のような口調で俺を諭す響。
そのくせ、自分の弁当に入っている人参は、綺麗に俺の弁当箱の隅へと移動させられているのだが。
「お前こそ、人参しっかり残してるじゃないか」
「うっ……。に、人参は、その……奏くんの方が、似合うと思って」
意味のわからない言い訳をしながら、彼女は慌てて視線を逸らす。
そのポンコツぶりと可愛らしさに、俺は思わず笑みがこぼれた。
俺は、彼女がよこしたグリーンピースを口に放り込むと、そのお返しとばかりに、響の弁当箱の蓋を閉めようとした彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。
「……っ!?」
びくり、と響の肩が大きく跳ねる。
触れた指先が、驚くほど熱い。
「奏、くん……?」
「……響の手、冷たいな。ちゃんと温めないと」
我ながら、苦しすぎる言い訳だ。
だが、俺は重ねた手を離すことができなかった。
彼女もまた、振り払うことなく、ただ顔を赤くして俯いている。
ドクン、ドクン、と互いの心臓の音が聞こえてきそうなほどの、甘い沈黙。
このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
そんな、ありえない願いが頭をよぎった、その時だった。
キィ、と屋上のドアが、わずかに開く音がした。
俺と響は、まるで電流が走ったかのように、弾かれたように手を離し、互いに距離を取る。
心臓が、さっきとは違う意味で、激しく音を立てていた。
ドアの隙間から、誰かがこちらを窺っている気配がする。
だが、その主は、すぐに出てくることはなかった。
やがて、ドアは静かに閉められ、廊下を走り去っていく足音が、遠ざかっていく。
「……今の、誰だったんだろうな」
「さあ……」
俺たちは、顔を見合わせる。
見られたのだろうか。今の、俺たちの姿を。
一瞬にして、甘い空気は、緊張をはらんだものへと変わってしまっていた。
束の間の安らぎは、終わりを告げた。
俺たちの聖域に、静かに、しかし確実に、外部からの視線という名の亀裂が入り始めていた。
†
その日の放課後。
俺が教室で帰りの支度をしていると、事件は起きた。
「響ちゃん、ちょっといいかな?」
声をかけてきたのは、橘美桜さんだった。
その笑顔は、いつもと同じように太陽みたいに明るい。
だが、その瞳の奥には、獲物を狙う鷹のような、鋭い光が宿っていた。
「美桜さん。どうしたの?」
「んー、ちょっとだけ、ガールズトークしよっ!」
そう言うと、美桜さんは響の腕を掴み、有無を言わさず教室の隅へと連れて行ってしまった。周りには、美桜さんのグループの女子たちが、興味津々といった顔で集まってくる。
完全に、包囲網が敷かれていた。
俺は、遠巻きにその様子を窺うことしかできない。
隼人が、心配そうに俺の隣にやってきた。
「おい、奏。あれ、やばいんじゃねえの?」
「……ああ」
美桜さんは、にこやかに、しかし、逃げ場のない質問を響に投げかけた。
「単刀直入に聞くね! 響ちゃんってさ、音無くんと付き合ってるでしょ!」
その言葉は、静かな教室に、爆弾のように投下された。
クラス中の視線が、一斉に響へと突き刺さる。
響の顔から、さっと血の気が引いていくのがわかった。
その瞳は、助けを求めるように、一瞬だけ、俺の方を向いた。
だが、俺にできることは何もない。
「つ、付き合ってなんかないわよ! な、なんで、そんなこと……」
響は、必死に否定する。
だが、その声は上ずり、動揺は誰の目にも明らかだった。
「えー、ほんとぉ? だって、昼休み、屋上で二人でいい感じだったって、見た子がいるんだよー?」
「そ、それは、ただ勉強を……!」
「ふーん? でも、最近の響ちゃん、いっつも音無くんのこと目で追ってるし、音無くんも響ちゃんのこと、すっごい優しい顔で見てるよ?」
美桜さんの、畳み掛けるような追及。
それは、友情からくる、純粋な興味なのだろう。悪意がない分、タチが悪い。
響は、完全に追い詰められていた。
ここで肯定すれば、明日から、俺たちの学園生活は一変するだろう。
好奇の目に晒され、平穏な日々は失われる。
俺たちの、始まったばかりのこの関係を、守るためには。
もう、選択肢は一つしか残されていなかった。
「……本当に、ただのクラスメイトだから」
響は、俯き、絞り出すような声で、そう言った。
それは、彼女が、自分の心についた、初めての嘘だった。
「……そっかー。ごめんね、変なこと聞いちゃって!」
美桜さんは、あっけらかんとそう言うと、仲間たちと次の話題へと移っていった。
嵐は、過ぎ去った。
だが、響の心には、深い傷跡が残されていた。
その場をなんとか切り抜けた響は、力なく自分の席に戻ると、逃げるように荷物をまとめて教室を出て行ってしまった。
その背中は、今まで見た中で、一番小さく、か弱く見えた。
その夜。
俺は、響の部屋を訪れた。
いつものように、夕食の入ったタッパーを手に。
だが、彼女は、俺の顔をまともに見ることができなかった。
「ごめんなさい、今日は食欲がないの」とだけ言って、ドアを閉めようとする。
「響」
俺は、そのドアを、そっと手で押さえた。
「何か、あったんだろ。美桜さんたちに、何か言われたのか?」
俺の言葉に、響の肩が、びくりと震える。
彼女は、顔を伏せたまま、何も答えない。
嘘をついた。
俺との関係を、否定してしまった。
その罪悪感が、彼女を苦しめているのだ。
言えよ。俺に、全部話してくれ。
そう言いたかった。
だが、その言葉は、喉の奥でつかえて、出てこなかった。
今の彼女に、それを問い詰めるのは、あまりにも酷なことだと思ったからだ。
「……そうか。わかった。じゃあ、これ、ドアの前に置いとくな。食べたくなったら、食べてくれ」
俺は、そう言うのが精一杯だった。
響は、最後まで俺と目を合わせることなく、こくりと小さく頷くと、静かにドアを閉めた。
冷たいドアの向こう側で、彼女が一人、思い悩んでいる。
そうわかっているのに、俺は何もしてやれない。
たった一枚のドアが、今は、途方もなく分厚い壁のように感じられた。




