第25話:教室という名の越えられない壁
月曜日。
週末の甘い時間から一転、俺と響は再び『ただのクラスメイト』という仮面を被って、教室の席に着いていた。
恋人になってから、初めて迎える週明け。
その事実は、教室の空気を今までとは全く違うものに変えていた。響の存在を意識するだけで、心臓が落ち着かなくなる。ちらりと視線を送れば、彼女もまた、教科書に目を落とすふりをしながら、その耳を真っ赤に染めているのがわかった。
俺たちの間には、わずか数メートルの物理的な距離しかない。
だが、その間には、クラスメイトという名の、分厚くて透明な壁が存在していた。
「ねえねえ、聞いた? 月宮さん、最近ますます綺麗になったよね」
「わかるー! なんか、前よりも雰囲気柔らかくなったっていうか、話しかけやすくなった感じしない?」
「それ! この前、勇気出して数学のノート見せてもらったんだけど、すっごい優しく教えてくれたんだよ。マジ女神」
休み時間。橘美桜さんを中心とした女子グループが、そんな噂話に花を咲かせているのが聞こえてきた。その輪の中心にいるのは、もちろん響だ。
彼女は、友人たちの言葉に「そんなことないわ」と謙遜しながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。自分の知らない場所で、響の世界が広がっていく。その光景は、俺の心を温かくすると同時に、チクリとした小さな痛みを伴った。
この感情は、嫉妬だろうか。
いや、違う。これは、独占欲だ。
家で俺だけに見せる、あのポンコツで甘えん坊な姿。それを知っているのは、世界で俺だけだという、優越感と表裏一体の醜い感情。
「……自己嫌悪になるな」
俺は、誰にも聞こえないように小さく呟くと、無理やりその感情を心の奥底に押し込めた。
一方、俺は俺で、別の壁に直面していた。
「よぉ、奏。お前、最近マジで雰囲気変わったよな」
昼休み、弁当を広げていると、親友の隼人がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「そうか? いつも通りだろ」
「嘘つけ。なんか、顔つきが男らしくなったっつーか……。さては、月宮さんと何かあったな?」
こいつの勘の鋭さは、もはや超能力の域だ。俺は必死にポーカーフェイスを装う。
「何もないって。それより、お前こそ、サッカー部のマネージャーといい感じなんじゃないのか?」
「なっ!? な、なんでそれを……!」
話を逸らすことに成功したが、隼人の疑いの眼差しは晴れていない。友人たちの鋭い勘は、俺たちが築いた秘密の壁を、いとも簡単に揺るがしてくる。この秘密を守り通すことの難しさを、俺は改めて実感していた。
放課後。ホームルームが終わった瞬間、俺は響にだけわかるように、小さく頷いてみせた。「屋上で」という、二人だけの合図だ。
響も、誰にも気づかれないように、こくりと頷き返す。
教室の喧騒から逃れるように、俺は一人、屋上へと向かった。
ひんやりとした風が、火照った頬に心地よい。
ここだけが、俺たちの聖域。
教室という名の分厚い壁を、唯一越えられる場所。
数分後、少しだけ遅れて、響がやってきた。
その顔には、一日中貼り付けていた完璧な仮面はなく、俺だけが知っている、年相応の少女の顔が戻っている。
「……疲れた」
俺の隣に並ぶなり、響はフェンスに寄りかかって、大きなため息をついた。
「お疲れさん。大変だったな、一日」
「奏くんこそ。隼人くんに、色々聞かれていたでしょう?」
「まあな。なんとか誤魔化したけど」
俺たちは、どちらからともなく顔を見合わせて、ふっと笑い合った。
同じ苦労を分かち合える相手がいる。その事実が、すり減った心を優しく癒してくれた。
「家に、帰ろうか」
「ええ」
並んで歩く帰り道。
夕日が、俺たちの影を長く伸ばしている。
学校では決して繋げない手が、今はすぐそこにある。その事実に、もどかしさと愛おしさが同時にこみ上げてきた。
教室という名の、越えられない壁。
その壁があるからこそ、二人きりの時間が、より一層甘く、特別なものになる。
今はまだ、それでいい。
俺は、隣を歩く愛しい恋人の横顔を盗み見ながら、そんなことを考えていた。




