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第24話:恋人という名の専属調律師


 屋上でのスリリングな昼食を終えた日の放課後。

 俺は、当たり前のように響の部屋のキッチンに立っていた。

 今日の夕食は、響からのリクエストでハンバーグを作ることにしたのだ。


「ねえ、奏くん。何か私に手伝えることはないかしら?」


 ソファに座って待っていることに飽きたのか、響がそわそわとこちらへやってきた。

 その手にはなぜか、ゴム手袋がはめられている。掃除の時の名残だろうか。


「手伝うって……まあ、じゃあ皿でも出しといてくれるか」

「任せて」


 得意げに胸を張った響は、食器棚へと向かう。

 だが、その足取りはどこかおぼつかない。

 そして、案の定、事件は起きた。


「ひゃっ……!」


 重ねてあった皿の上の一枚が、つるりと滑り落ちそうになる。

 ガシャン、と嫌な音が鳴る寸前、俺はフライパンから手を離し、身を乗り出してその皿を空中でキャッチした。


「大丈夫か?」

「あ、ありがとう」

「もう……なんで皿持つだけでそんなことになるんだよ」

「だ、だって……お皿が思ったより滑りやすかったから……」


 しゅん、と子犬のようにしょげる響。

 こうなると、強く言えないのが俺の弱いところだ。


「とりあえず、そこに座って待っててくれ。それが一番の手伝いだよ」

「むぅ……」


 不満げに頬を膨らませながらも、響は素直にソファへと戻っていった。やれやれだ。


 ジュウ、と小気味よい音を立てて、フライパンの中のハンバーグが焼けていく。香ばしい匂いが、綺麗に片付いた部屋に満ちていった。


「それにしても、今日の昼休みは肝が冷えたな」


 俺が言うと、ソファの上の響の肩が、びくりと震えた。


「……本当に。隼人くん、絶対に気づいてるわよね?」

「ああ、間違いなくな。まあ、あいつは大丈夫だろ。問題は、橘さんの方だ」

「美桜さん? 彼女がどうかしたの?」

「いや、女子のああいう勘は鋭いからな。響、最近美桜さんとよく話してるんだろ?」

「ええ。なんだか、雰囲気が柔らかくなったって、前よりも話しかけてくれるようになって……」


 嬉しそうに話す響。彼女の世界が広がるのは良いことだ。

 だが、それだけ秘密がバレるリスクも高まる。


「……奏くんは、嫌?」

「え?」

「私が、他の人と仲良くするの。……嫌だったり、する?」


 不安そうに、こちらを窺う響。どうやら、俺が嫉妬しているとでも思ったらしい。


「ばーか。嫌なわけないだろ。むしろ、嬉しいよ。響が、学校を楽しんでるんだってわかるからな」


 それは、俺の偽らざる本心だった。

 少しの寂しさがないと言えば嘘になるが、それ以上に、彼女の笑顔が増えることの方が、俺にとっては大切だった。


 焼き上がったハンバーグを皿に盛り付け、特製のデミグラスソースをたっぷりとかける。我ながら、完璧な出来栄えだ。


「どうぞ、召し上がれ。お姫様」

「……もう、からかわないで」


 俺がふざけて言うと、響は少しだけ頬を膨らませながらも、嬉しそうにナイフとフォークを手に取った。


 一口食べた瞬間、彼女の蒼い瞳が、ぱあっと輝きを増す。


「美味しい……! こんなに美味しいハンバーグ、初めて食べたわ」

「そりゃどうも」


 夢中になってハンバーグを頬張る響の姿を、俺は目を細めて見守る。

 この時間が、俺にとっては何よりの幸せだった。


 その時、俺は気づいてしまった。彼女の口の端に、ソースがちょこんとついていることに。


「響、ついてるぞ」

「え?」


 俺が自分の口元を指差して教えると、響はきょとんとした顔で、ぺろりと自分の唇を舐めた。しかし、その場所は見当違いも甚だしい。


「……まだついてる?」

「ははっ、違う、そっちじゃない」


 そのポンコツぶりに、俺は思わず笑ってしまう。

 響は「どこ?」と首を傾げながら、さらに見当違いの場所を舐めようとしている。もうめちゃくちゃだ。


「……もう、じっとしてろ」


 俺は、呆れながらも、どこか愛おしさがこみ上げてくるのを感じていた。

 席を立ち、彼女の隣に回り込むと、その頬にそっと手を添える。


「……っ!?」


 びくり、と響の肩が跳ねた。俺は、彼女の口元についたソースを、親指で優しく拭ってやった。

 指先に触れた彼女の肌は、驚くほど柔らかくて、熱い。


「……とれたぞ」


 至近距離でそう告げると、響は顔を真っ赤にしたまま、完全に固まってしまっていた。その瞳は潤み、まるでショート寸前の機械のようだ。

 その反応が、また可愛くて。俺は、自分の心臓がドクンと大きく鳴ったのを感じていた。


     †


 甘すぎる夕食の後、響のピアノリハビリが始まった。俺はソファに座り、彼女が奏でる音に静かに耳を傾ける。


 彼女が弾くのは、ショパンのワルツ。

 まだおぼつかない指つきだが、その音色には、確かな喜びが満ちていた。俺と出会った頃の、あの悲鳴のような不協和音は、もうどこにもない。


 一曲弾き終えた彼女は、満足げに息をつくと、くるりと椅子を回転させて俺の方を向いた。


「どうだったかしら?」

「ああ。すごく良かった。特に、中間部の左手のアルペジオ。前よりずっと滑らかになってた。やっぱり、響のピアノは特別だな」


 技術的な巧拙を超えて、彼女の音には、人の心を惹きつける何かがある。

 俺の具体的な賞賛に、響は嬉しそうにはにかんだ。


「奏くんが、いつも聴いていてくれるから。それに、このピアノが、応えてくれるから」


 そう言って、彼女は愛おしそうに鍵盤を撫でた。その横顔は、真剣で、美しくて、俺は少しだけ見とれてしまう。


 だが、その表情が、ふと、どこか悪戯っぽいものに変わった。


「ねえ、奏くん」

「なんだ?」

「奏くんは、私のピアノと、私のこと……その、どっちが好きなの?」


 上目遣いで、そんなことを尋ねてきた。

 その問いは、あまりにも不意打ちで、そして、あまりにも可愛すぎた。


 自分のピアノの音色と、自分自身を天秤にかけるなんて。なんて、愛らしい嫉妬だろうか。


 俺は、一瞬言葉に詰まった後、わざと大きなため息をついてみせた。


「……はぁ。そんなの、決まってるだろ」


 俺はソファから立ち上がると、彼女の隣に歩み寄る。ピアノの鍵盤にそっと触れながら、呆れたような、それでいて、最大限の愛情を込めた声で、こう告げた。


「響が弾くから、響のピアノが特別なんだ。ピアノだけ好きだとか、響だけが好きだとか、そんなのあるわけない。俺は、響が奏でる音も、その音を奏でる響の全部が、好きなんだ。……だから、どっちもだ」


 その答えが、彼女にとっての満点だったらしい。

 響は、心の底から嬉しそうに、花が咲くような笑顔を見せた。


 恋人という名の専属調律師。俺の仕事は、ピアノの音を調律するだけじゃない。目の前にいる、世界で一番愛おしいピアニストの、心の調律をすること。


 その音色が、曇らないように。いつまでも、美しく響き続けるように。

 俺は、これからもずっと、彼女の隣にいるのだろう。


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