第23話:秘密の朝と、甘いお弁当
教室のドアを開けると、彼女はすでに来ていた。
窓際の席で、静かに文庫本を読んでいる。その姿は、昨日までの日常と何も変わらない、完璧な『氷の姫君』そのものだ。
だが、俺が自分の席に向かって歩き出すと、その肩がぴくりと小さく震えたのがわかった。
俺の存在に、気づいている。
俺が席に着き、ちらりと彼女の方へ視線を送る。
その瞬間、ばちり、と目が合ってしまった。
「……っ!」
響は、まるで感電したかのように体を強張らせると、次の瞬間には顔を真っ赤にして、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
そのあまりに分かりやすい態度に、俺は思わず苦笑が漏れそうになるのを必死でこらえる。
おいおい、いくらなんでも露骨すぎないか?
周りのクラスメイトに、俺たちの関係がバレてしまうのも時間の問題な気がする。
完璧な『氷の姫君』の仮面が、恋という名の熱によって、少しずつ、しかし確実に溶け始めている。
その事実が、たまらなく愛おしくて、そして少しだけスリリングだった。
†
「よぉ、奏。今日、月宮さんのご機嫌、ナナメじゃね?」
昼休み。俺が弁当も食べずにぼーっとしていると、親友の隼人が隣の席から声をかけてきた。
「なんでだよ」
「だって、朝から誰とも口利いてねーし。話しかけた女子、完璧な笑顔でスルーされてたぞ。お前、なんかしたのか?」
ニヤニヤと探るような視線を向けてくる隼人。こいつの勘の鋭さは、時々本当に恐ろしくなる。
俺が何かした、というより、俺のせいで彼女がキャパオーバーになっている、というのが正解だ。
「さあな。俺には関係ないことだろ」
俺はそう言ってしらを切ると、空の弁当箱を手に席を立った。
「わり、今日弁当忘れたから、購買でパン買ってくる」
「おー。俺の分も頼むわ、焼きそばパンな」
隼人の声を背中で聞きながら、俺は教室を出た。
もちろん、購買に向かうというのは嘘だ。
向かった先は、誰もいない屋上。
フェンスに背を預け、大きく息を吐く。
「……心臓に悪い」
秘密を共有するというのは、想像以上にエネルギーを使うらしい。
響の気持ちが、少しだけわかる気がした。
ふと、俺は自分の手の中にある、空のタッパーを見つめる。
そうだ。明日からは、俺が弁当を作ってやればいいんじゃないか。
そうすれば、響も昼食を抜かずに済むし、俺も屋上で堂々と弁当が食べられる。
我ながら、完璧な名案だ。
どうせなら、ただ作るだけじゃ面白くない。
恋人になって、初めて作ってやる弁当だ。少しだけ、特別仕様にしてやろう。
響の好きなものは、なんだっけか。
確か、甘い卵焼きと、タコさんウインナーが好きだと言っていた。お子様ランチか。
あいつのポンコツぶりを思い出し、自然と口元が緩む。
よし、決めた。
明日の弁当は、あいつを驚かせるような、とびきり甘いやつにしてやろう。
†
翌日の昼休み。
俺は、宣言通りに二人分の弁当を手に、響を連れて屋上へと来ていた。
「ほら、響の分」
「……ありがとう」
俺から弁当箱を受け取った響は、どこか緊張した面持ちで、ゆっくりと蓋を開ける。
そして、中身を見た瞬間、その動きがぴたりと止まった。
「…………」
「どうした? 嫌いなものでもあったか?」
俺が尋ねると、彼女はふるふると首を横に振る。
そして、潤んだ瞳で俺を見上げると、震える声で言った。
「……なん、で……卵焼きが、ハートの形なの……?」
そう。俺が考えた特別仕様とは、おかずを全部可愛くデコレーションするという、我ながら気恥ずかしくなるようなサプライズだ。
タコさんウインナーには海苔で顔をつけ、ブロッコリーは星形にくり抜いてある。
「……子供扱い、しないで」
響は、そう言って頬を膨らませる。
だが、その顔は、どう見ても嬉しそうだ。耳まで真っ赤になっている。
「悪い悪い。つい、やりすぎた」
俺が笑って謝ると、彼女は「……別に、許さないわけじゃないけど」と、もごもご言いながら、ハートの卵焼きを小さな口で、ぱくりと食べた。
その仕草が、たまらなく可愛い。
幸せな時間だ、と心から思う。
誰にも邪魔されない、二人だけの聖域。
そう思っていた、その時だった。
ガチャリ、と屋上のドアが開く音がした。
「おーい、奏! やっぱりここにいたか! って、あれ……?」
最悪のタイミングで現れたのは、もちろん、隼人だった。
俺と響が二人きりでいるのを見て、目を丸くしている。
まずい。
俺と響は、アイコンタクトさえ交わさずに、ほぼ同時に動いた。
さっと互いの距離を1メートルほど空け、何事もなかったかのように、それぞれの弁当に視線を落とす。完璧なコンビネーションだった。
「……なんだ、月宮さんもいたのか。邪魔して悪かったな」
隼人は、何かを察したように、ニヤリと笑う。
その顔には、「お前ら、やっぱりデキてんだろ」と書いてあった。
「別に。ただ、音無くんに勉強を教えてもらっていただけだから」
響が、すました顔で、完璧な嘘をついた。
弁当広げながら、何の勉強だよ。
だが、隼人はそれ以上追及することなく、「そっかそっかー。じゃあ、俺はあっちで食ってるわ」と、わざとらしく手を振りながら、俺たちから離れた場所に腰を下ろした。
嵐は、なんとか過ぎ去ったらしい。
俺は、こっそりと響に視線を送る。
彼女は、さっきまでの幸せそうな顔はどこへやら、完璧な『氷の姫君』のポーカーフェイスで、星形のブロッコリーを口に運んでいた。
秘密の恋は、甘くて、スリリングで、そして、とんでもなく心臓に悪い。




