プロローグ2:二人だけのプレリュード
腕の中に、響がいる。
俺の胸に顔をうずめ、その体は小刻みに震えている。さっきまで流していた涙の熱が、俺のシャツ越しにじわりと伝わってきた。
「……響」
名前を呼ぶと、彼女の肩がびくりと跳ねる。その反応が、どうしようもなく愛おしい。
数分前、俺たちは、ようやく恋人になった。
俺が彼女の『専属調律師』になってから、季節が一つ巡るほどの時間が経っていた。長かったのか、短かったのか、今となってはもうわからない。
ただ、確かなのは、この腕の中にある温もりが、俺がずっと手に入れたかった宝物だということだけだ。
「……重い」
響が、くぐもった声で呟いた。
「え?」
「奏くんの心臓の音、うるさい。重低音が、頭に響く……」
それは、俺が今、人生で一番緊張している証拠だ。文句のつけ方まで可愛いとか、このポンコツピアニストは本当に末恐ろしい。
「悪かったな、うるさくて」
俺が少し意地悪く言うと、響は顔を上げた。涙で潤んだ蒼い瞳が、俺を拗ねたように見つめている。
「……別に、嫌じゃない」
そう言って、彼女はもう一度、俺の胸にこてん、と頭を預けた。その仕草一つで、俺の心臓がさらに激しく鳴り響いたのは、言うまでもない。
これから、俺たちの日常は変わっていくのだろうか。
専属調律師と、ピアニスト。そして、隣人。その関係に、『恋人』という、甘くて、少しだけ気恥ずかしい名前が加わる。
期待と、ほんの少しの不安。そんな、心地よい不協和音が、俺の胸を満たしていた。
†
翌朝、俺はどこか夢見心地のまま、目を覚ました。
アラームが鳴るより、数分早い。昨夜の出来事が、まだ夢の続きのように感じられて、頬をつねってみる。痛い。どうやら、現実らしい。
ベッドから起き上がり、いつものように玄関のドアを開ける。
そこには、見慣れた光景があった。俺が昨日、夕食を入れて渡したタッパーが、綺麗に洗われて置かれている。
だが、今日は一つだけ、違っていた。
そのタッパーの蓋に、小さなリボン結びにされたメモが、ちょこんと添えられていたのだ。
俺は、そのメモをそっと手に取る。
そこには、彼女の少しだけ丸っこい、綺麗な字で、こう書かれていた。
『おはよう、奏くん』
たった一言。
それだけなのに、昨日までの日常が、全く違う色に見える。
ただの隣人同士のやりとりだったタッパーの返却が、恋人同士の秘密のメッセージに変わった瞬間だった。
俺は、そのメモを胸ポケットにしまい、込み上げてくる笑みを抑えきれない。
「……反則だろ、あんなの」
誰に言うでもなく呟いて、空を見上げる。
どこにでもある、ありふれた朝の風景。
だが、俺にとっては、今日から始まる新しい物語への、希望に満ちたプレリュードのように思えた。




