第22話:そして、プレリュードが始まる
「……これが、私の、答え」
響が紡いだ言葉は、最後の一音の余韻と共に、静かな部屋に溶けていった。
その顔には、満開の笑顔が咲いている。
涙と汗で濡れたその笑顔は、俺が今まで見たどんな芸術品よりも、美しく、尊いものに思えた。
俺たちの関係は、なんなのか。
その問いに対する、彼女からの返答。
それは、言葉ではなかった。
だが、俺には、痛いほど伝わっていた。
彼女が奏でた、あの曲。
出会い、葛藤、絶望、そして、希望。
俺と過ごした日々の、全ての感情が、そこには込められていた。
それは、ただの演奏じゃない。
彼女の魂そのものだ。
そして、その魂の全てを、彼女は、俺に捧げてくれたのだ。
俺は、ソファから、ゆっくりと立ち上がった。
一歩、また一歩と、彼女の元へと歩み寄る。
彼女は、ピアノの椅子に座ったまま、少しだけ緊張した面持ちで、俺を見上げていた。
その潤んだ蒼い瞳が、俺の答えを、待っている。
俺は、彼女の目の前で、足を止めた。
そして、差し伸べられた問いに答えるように、今度は、俺の方から、手を差し伸べる。
「……聴かせてくれて、ありがとう」
俺がそう言うと、彼女は、安心したように、ふわりと微笑んだ。
そして、俺の手に、自分の手を、そっと重ねる。
少しだけ、ひんやりとした、ピアニストの指。
その繊細な指が、俺の大きな手を、きゅっと、弱々しく握り返した。
その、小さなぬくもりが、俺の心を、決意で満たしていく。
もう、迷わない。
怖がるのは、終わりだ。
俺が、彼女の隣にいる理由。
俺が、彼女にしてあげたいこと。
答えは、もう、ずっと前から、決まっていたじゃないか。
「響」
俺は、彼女の名前を呼ぶ。
重ねた手に、少しだけ、力を込めて。
「はい」
彼女は、まっすぐに、俺の目を見つめ返してきた。
その瞳の奥には、俺への、絶対的な信頼が宿っている。
「俺は、響のことが、好きだ」
ついに、言えた。
今まで、心の奥に、ずっと閉じ込めてきた、たった一言。
それは、自分でも驚くほど、素直に、俺の口から滑り出ていった。
俺の告白に、響の瞳が、大きく、大きく、見開かれる。
その白い頬が、みるみるうちに、林檎のように、真っ赤に染まっていくのがわかった。
彼女は、何かを言おうとして、口をぱくぱくと動かしているが、言葉にならないようだ。
その姿が、愛おしくて、たまらない。
俺は、言葉を続ける。
「ただの隣人としてでも、専属調律師としてでもない。一人の男として、響のことが、好きだ。これからも、ずっと、隣にいて、響の音を、一番近くで聴いていたい。響の笑顔を、一番近くで見ていたい」
俺は、空いている方の手で、彼女の頬に、そっと触れた。
涙の跡が残る、その滑らかな肌を、親指で、優しくなぞる。
「だから、俺と、付き合ってくれないか?」
俺の、精一杯の告白。
彼女は、俺の言葉を、一言一句、噛み締めるように、聞いていた。
そして、その瞳から、また、ぽろり、と大粒の涙が、一筋、こぼれ落ちた。
でも、それは、悲しみの涙ではない。
嬉し涙だということは、彼女の表情を見れば、すぐにわかった。
彼女は、重ねた俺の手に、自分の額を、こつんと押し当てる。
そして、震える声で、絞り出すように、言った。
「……ずるい」
「え?」
「そんなの……私が、先に、言おうと、思ってたのに……」
その、可愛すぎる文句に、俺は、思わず笑ってしまった。
なんだよ、それ。
俺が、ずっと、一人で、悩んでいたのは、なんだったんだ。
彼女は、顔を上げた。
その顔は、涙と、はにかんだ笑顔で、ぐしゃぐしゃだったけれど。
俺が、生涯忘れることのないであろう、最高の笑顔だった。
「私も……奏くんのことが、好きです」
その言葉が、俺たちの新しい関係が始まったことを告げる、ファンファーレだった。
俺は、彼女の手を、優しく引き寄せる。
彼女は、素直に、俺の胸の中に、飛び込んできた。
俺は、彼女の華奢な体を、強く、強く、抱きしめる。
もう、二度と、離さない、と誓うように。
隣の部屋から聞こえてきた、悲鳴のようなノクターン。
あの日から始まった、俺たちの物語。
それは、これから始まる、長い、長い、恋のプレリュード(前奏曲)に過ぎない。
俺たちの音は、まだ、始まったばかりだ。
二人でなら、きっと、どんな美しいハーモニーだって、奏でていける。
そんな、確信にも似た予感が、俺の胸を、温かく満たしていた。
ここまでのご読了ありがとうございました!
第1部はここまでとなりますので、第2部をお待ちいただければ幸いです。




