第21話:二人だけのノクターン
静まり返った部屋に、響が奏でるピアノの旋律だけが、満ちていく。
それは、喜びと悲しみが、光と影が、複雑に絡み合ったような、不思議な曲だった。
優しいメロディが、まるで陽だまりの中で微睡んでいるかのような、穏やかな気持ちにさせてくれる。
かと思えば、突然、激しい不協和音が、胸の奥の不安を掻き立てる。
そしてまた、全てを包み込むような、温かい和音が、心を癒してくれる。
これは、彼女の心そのものだ。
俺は、目を閉じて、その音に、ただ身を委ねた。
演奏が進むにつれて、これまでの出来事が、走馬灯のように、脳裏に蘇ってくる。
隣の部屋から聞こえてきた、狂ったピアノの音。
玄関で、冷たくなって倒れていた彼女。
ゴミの山の中で、怯えた獣のように、俺を睨みつけていた、蒼い瞳。
初めて交わした、ぎこちない会話。
俺が作ったお粥を、無心で食べる、幼い横顔。
空になったタッパーが、無言で伝えてくれた、「ありがとう」。
二人きりの大掃除と、不意に触れ合った、指先の熱。
壊れたピアノを前に、声を上げて泣きじゃくった、彼女の涙。
俺が調律した音を聞いて、花が咲くように、笑った顔。
その全てが、彼女の奏でる一音一音に、溶け込んでいるように感じられた。
これは、月宮響という少女が、音無奏という少年に出会ってから、今日までの、心の軌跡を綴った、壮大な物語なのだ。
曲は、次第に、その熱量を増していく。
彼女の指が、鍵盤の上を、舞うように、踊るように、激しく動き回る。
それは、かつて俺が聞いた、悲鳴のような演奏とは、全く違う。
そこには、絶望ではなく、確かな希望があった。
苦しみの中から、光を見出そうとする、強い意志があった。
すごい。
心の底から、そう思った。
俺は今、とんでもない才能が、再び目覚める瞬間に、立ち会っているのかもしれない。
だが、それと同時に、俺は感じていた。
この演奏は、世界中の誰かに向けられたものではない。
コンクールの審査員でも、満員の聴衆でもない。
たった一人。
この部屋にいる、俺、音無奏にだけ、向けられた音なのだと。
それは、彼女からの、ラブレターだった。
言葉にできない、ありったけの想いを込めた、世界で一番、美しくて、切ない、音のラブレター。
俺たちの関係は、なんなのか。
その問いへの、彼女からの、答え。
俺は、目を開けた。
ピアノを弾く彼女の横顔は、汗で濡れ、髪が頬に張り付いている。
だが、その表情は、恍惚としていて、美しかった。
やがて、激しい嵐のようなパートが終わり、曲は、静かなエンディングへと向かっていく。
それは、まるで、夜明け前の、一番静かな時間のような、穏やかで、優しいメロディ。
一つ、また一つと、音が、静寂の中に、吸い込まれていく。
そして、最後の一音が、優しい余韻を残して、静かに、消えた。
完璧な、演奏だった。
俺は、しばらく、その美しい余韻に浸っていた。
言葉も、拍手さえも、この神聖な瞬間を、壊してしまうような気がして。
演奏を終えた響は、しばらく鍵盤の上に指を置いたまま、動かない。
やり遂げたという達成感と、自分の全てをさらけ出してしまった羞恥心で、その肩が、小さく震えているのが、わかった。
やがて、彼女は、ゆっくりと、ピアノの椅子を回転させた。
そして、俺の方を、振り返る。
その顔は、涙と汗で濡れているが、これまでに俺が見た、どんな表情よりも、晴れやかで、美しかった。
彼女は、はにかみながら、心の底からの、満開の笑顔を見せた。
「……これが、私の、答え」
その言葉と笑顔が、俺たちの関係が、新しい段階に入ったことを告げる、始まりの合図だった。
俺は、立ち上がり、彼女の元へと、歩み寄っていた。




