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第20話:君のための音


 俺たちの関係を問う響の言葉に、俺が答えられなかったあの日から、部屋の中には、ぎこちない空気が漂うようになってしまった。

 それは、まるで薄いガラスの壁のようだ。

 互いに触れたいのに、触れることができない。そんな、もどかしい距離感。


 放課後のリハビリも、夕食の時間も、どこか上の空だった。

 会話は途切れがちになり、俺たちは、意味もなく窓の外を眺めたり、テーブルの木目を指でなぞったりして、沈黙を埋めようとした。


 このままでは、いけない。

 俺たちの関係は、このまま、ゆっくりと壊れていってしまうのかもしれない。

 その恐怖が、俺の心を苛んでいた。


 そんな、重苦しい日々が、数日続いた、ある日の放課後。

 いつものように、俺が響の部屋で夕食の片付けを終え、自分の部屋に戻ろうとした、その時だった。


「待って」


 響が、震える声で、俺を呼び止めた。

 振り返ると、そこには、何かを固く決意したような、真剣な表情の彼女が立っていた。


 その瞳は、まっすぐに俺を射抜いている。

 もう、迷いの色はなかった。


「奏くん」


 俺の名前を呼ぶ、その声。

 いつもの、少し甘えたような響きではなく、凛とした、強い意志を感じさせる声だった。

 俺は、ゴクリと唾を飲み込み、彼女の次の言葉を待つ。


「お願いがあるの」


 彼女の真剣な瞳は、俺ではなく、部屋の中央にある、グランドピアノに向けられていた。

 その瞳には、今まで見たこともないような、熱い光が宿っている。


「私の音を、聴いてほしい」


 それは、命令に近いほどの、強い響きを持った言葉だった。

 先日、彼女がノクターンを弾いてくれた時とは、明らかに違う。

 あの時は、感謝と、リハビリの成果報告のような意味合いが強かった。


 だが、今は違う。

 彼女は、ピアニスト・月宮響として、俺に、たった一人の聴衆になってくれと、そう言っているのだ。


 俺たちの間にある、答えのない問い。

 彼女は、その答えを、言葉ではなく、音で伝えようとしているのかもしれない。


 俺は、何も言わずに、力強く頷いた。

 そして、いつかのように、部屋のソファに、そっと腰を下ろす。


 彼女は、俺のその態度に満足したように、小さく微笑んだ。

 そして、ピアノの前に座ると、鍵盤の蓋を、静かに開ける。

 その一連の動作は、洗練されていて、美しかった。


 彼女は、目を閉じ、深く、深く、息を吸い込む。

 まるで、全身で、これから奏でる音楽と、一体になろうとしているかのようだ。


 部屋の明かりが、彼女のプラチナブロンドの髪を照らし、まるで後光が差しているように見える。

 その姿は、神々しいとさえ思った。


 やがて、彼女の指が、鍵盤の上に、そっと置かれる。

 長い、長い、沈黙。

 それは、これから始まる演奏への、期待感を極限まで高めるための、完璧な間だった。


 そして――。


 紡ぎ出された最初の音に、俺は、全身の鳥肌が立つのを感じた。

 それは、俺が今まで聴いた、どんなピアノの音よりも、美しく、そして切実な響きを持っていたからだ。


 彼女が選んだ曲。

 それは、俺が知らない曲だった。

 だが、そのメロディは、どこか懐かしく、そして、ひどく胸を締め付ける。


 これは、彼女が、俺に贈ることができる、最大限の感謝と、信頼と、そして――愛情の証。

 二人だけの演奏会が、今、静かに幕を開けた。


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