第17話:ポンコツピアニスト、大地に立つ
心の氷が溶け始めた影響なのか、響のポンコツぶりが、最近ますます加速しているように思う。
いや、今まで見えなかった部分が、見えるようになっただけなのかもしれない。
ある日の放課後。
響の部屋でリハビリを終えた俺たちは、いつものように夕食の準備をしていた。
今日のメニューは、カレーライス。
これも、響が食べたことがないというので、俺が提案したのだ。
そして、その調理の過程で、事件は起きた。
「奏くん、じゃがいもって、皮ごと切るものなの?」
「いや、剥けよ」
「どうやって?」
「ピーラー使って」
「ぴーらー……?」
響は、キッチンの引き出しから、生まれて初めて見る物体かのように、恐る恐るピーラーを取り出した。
そして、じゃがいもを手に、悪戦苦闘を始める。
「うっ……かたい……」
「逆、逆! 刃の向きが逆だ!」
俺が慌てて手本を見せると、彼女は「なるほど……」と感心したように頷いている。
この調子で、カレーは無事に完成するのだろうか。
俺の不安は、的中することになる。
次の難関は、玉ねぎのみじん切りだった。
俺が他の野菜を切っている間に、響に任せていたのだが。
「うっ……うぅ……」
背後から、すすり泣くような声が聞こえてきた。
振り返ると、響が、包丁を片手に、ボロボロと大粒の涙を流している。
「ど、どうしたんだよ、急に!?」
「だっで……たまねぎが……目に、しみるの……っ!」
どうやら、玉ねぎの刺激成分にやられてしまったらしい。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、それでも必死に玉ねぎと格闘する彼女の姿は、健気というか、なんというか……。
俺は、思わず吹き出してしまった。
「な、なに笑ってるのよ!」
「いや、悪い、悪い。でも、そんなに泣きながら料理するやつ、初めて見たから」
「笑いごとじゃないわ! これは、人類に対する玉ねぎの挑戦よ!」
意味のわからないことを叫びながら、彼女は涙を拭う。
その様子が、またおかしくて、俺の笑いは止まらなくなった。
つられて、響も「もう……」と口では文句を言いながら、その口元は、確かに笑っていた。
二人で顔を見合わせて、一緒に大笑いする。
そんな、何気ない時間が、俺にとってはかけがえのない宝物だった。
結局、その日のカレーは、俺がほとんど一人で作ることになった。
だが、響は、自分が切った(というより、砕いたに近い)不格好な玉ねぎが入ったカレーを、それはそれは美味しそうに食べていた。
「美味しい! 私が作ったから、格別だわ!」
「いや、お前がやったの、玉ねぎ泣きながら砕いただけだからな?」
「む……。でも、一番大事な工程よ!」
そんな軽口を叩き合える関係が、心地よかった。
ピアノを弾いている時の、真剣な音楽家の顔。
学校で見せる、少しだけ壁がなくなった『氷の姫君』の顔。
そして、俺の前だけで見せる、とんでもなくポンコツで、愛らしい素顔。
その全てが、月宮響という人間を形作っている。
そして俺は、その全ての響に、どうしようもなく惹かれているのだ。
そんなある日のこと。
俺は、信じられない光景を目撃することになる。
それは、体育の授業でのことだった。
今日の種目は、体力測定の反復横跳び。
運動が苦手そうな響は、大丈夫だろうか。
俺が、そんな心配をしながら彼女の番を見ていると。
位置について、よーい、スタート!
その合図と共に、響が動き出した。
その動きは、もはや反復横跳びではなかった。
ぴょん、ぴょん、と、まるで生まれたての子鹿のように、その場で軽くジャンプを繰り返しているだけなのだ。
ラインをまたぐという、基本的なルールさえ、理解していないらしい。
「月宮さん! もっと、横に! 横に動いて!」
体育教師の必死の檄が飛ぶ。
周りの女子たちも、苦笑しながら彼女を見守っている。
当の本人は、なぜ周りがそんな反応をしているのか、全くわかっていない様子で、きょとんとした顔で、ぴょんぴょんと跳ね続けていた。
その姿は、あまりにもシュールで、そして、とてつもなく可愛かった。
結果、彼女の記録は、驚異の『3回』。
クラスの女子の平均が40回を超えている中での、圧倒的な記録だ。
授業が終わった後、俺は、落ち込んでいるだろう彼女の元へと向かった。
「……見たわね」
俺の顔を見るなり、響は、恨めしそうな目でこちらを睨んできた。
その顔は、羞恥で真っ赤になっている。
「ああ、ばっちりな。世紀の瞬間を」
「忘れて! 今すぐ、今の記憶を消去してちょうだい!」
「無茶言うなよ」
頭を抱えてしゃがみこむ彼女。
その姿に、周りにいた橘さんたちが、くすくすと笑いながら集まってきた。
「月宮さん、どんまい! でも、なんか、すっごい可愛かったよ!」
「そうそう! 意外と運動苦手なんだね! 親近感わいちゃった!」
女子たちの、悪意のない言葉。
それは、今まで彼女に向けられることのなかった、親しみを込めた『イジり』だった。
響は、戸惑いながらも、その言葉を受け止めている。
そして、俺の方を、ちらりと見た。
その目は、「助けて」と訴えているようでもあり、「どうしよう」と相談しているようでもあった。
俺は、彼女にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「いいじゃんか。ポンコツピアニスト、大地に立つ、って感じで」
「誰がポンコツよ!」
俺の軽口に、彼女はぷくりと頬を膨らませる。
そのやり取りを見て、橘さんたちが、また楽しそうに笑った。
響は、もう一人じゃない。
彼女の周りには、温かい輪が、でき始めていた。
その中心には、少し不器用で、最高に愛しい、ポンコツなピアニストが、はにかみながら立っていた。




