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第16話:再生のプレリュード


 鳴りやまない拍手の中、響はただ、満開の笑顔で俺を見ていた。

 涙で濡れた頬を拭うこともせず、やり遂げたという達成感と、自分の全てをさらけ出したことへの安堵感に、その身を委ねているようだった。


 俺は、拍手をやめると、彼女の前にそっと歩み寄る。

 そして、ハンカチを取り出し、彼女の頬を伝う涙を、優しく拭ってやった。


「……っ」


 響の肩が、びくりと小さく震える。

 その顔は、羞恥心からか、ぽっと赤く染まっていた。

 俺の指先が彼女の肌に触れるたび、その熱が、こちらにまで伝わってくるようだ。


「よく、頑張ったな」


 俺がそう言って頭を撫でると、彼女は、まるで猫のように、気持ちよさそうに目を細めた。

 そして、こくりと小さく頷く。


「奏くんが、いてくれたから」


 その言葉が、どれだけ俺を喜ばせたか、彼女は知らないだろう。

 専属調律師になってよかった。

 彼女の隣にいることを選んで、本当によかった。

 心の底から、そう思った。


 その日の夜は、ささやかなお祝いをした。

 といっても、俺が少しだけ奮発して買ってきたケーキを、二人で食べるだけだ。

 それでも、俺たちにとっては、どんな豪華なディナーよりも特別なものだった。


「美味しい……」


 初めて食べるというショートケーキを、響は目を輝かせながら頬張っている。

 その口の周りには、生クリームがうっすらとついていた。

 あまりにも無防備で、子供っぽいその姿に、俺は思わず苦笑してしまう。


「ついてるぞ」

「え?」

「ここ」


 俺が、自分の口元を指差して教える。

 すると彼女は、きょとんとした顔で、見当違いの場所をぺろりと舐めた。


「……まだ、ついてる?」

「ははっ、逆だ、逆」


 俺たちの間には、もう、以前のようなぎこちない空気はなかった。

 ごく自然に、笑い合える。

 そんな、当たり前のことが、今は何よりも愛おしく感じられた。


 トラウマを乗り越えるための、大きな一歩。

 ノクターンを弾ききったことで、響の心には、確かな自信が芽生えていた。

 それは、彼女の日常にも、少しずつ変化をもたらしていくことになる。


 翌週の月曜日。

 学校での響の様子が、明らかに変わった。

 今までは、誰とも目を合わせず、話しかけられても最低限の返事しか返さなかった彼女が、自分から、クラスメイトに微笑みかけるようになったのだ。


 その変化に、最初に気づいたのは、クラスの人気者である橘美桜たちばな みおだった。


「月宮さん、おはよう! 週末、何かいいことあった?」


 太陽のような明るい笑顔で、橘さんが響の席にやってくる。

 以前の響なら、曖昧に微笑んでやり過ごしていただろう。

 だが、今の彼女は違った。


「おはよう、橘さん。別に、何もないわよ」


 そう言って、彼女は、はにかむように、ふわりと微笑んだのだ。

 その自然な笑顔に、橘さんだけでなく、周りで見ていたクラスメイトたちも、息をのんだ。


『氷の姫君』の、雪解けの瞬間。

 その歴史的な出来事に、教室中が、少しだけざわついた。


 俺は、自分の席からその光景を眺めながら、誇らしいような、でも、少しだけ寂しいような、複雑な気持ちになっていた。

 彼女の世界が、広がっていく。

 俺だけが知っていた彼女の素顔を、他の誰かも知ることになる。


 それは、喜ばしいことのはずなのに。

 胸の奥が、チクリと痛んだ。

 この感情が、醜い独占欲だということは、わかっていた。


 その日の昼休み。

 俺が屋上で弁当を食べていると、珍しい人物がやってきた。

 響だ。


「……隣、いいかしら?」

「お、おう。もちろん」


 俺は慌てて、隣のスペースを空ける。

 彼女が、学校で俺に話しかけてくるなんて、初めてのことだ。

 心臓が、少しだけ速くなるのを感じる。


 彼女は、俺の隣に座ると、小さなサンドイッチを取り出した。

 どうやら、自分で作ってきたらしい。


「奏くん、見てた?」

「え? ああ、朝のことか?」

「うん……。なんだか、恥ずかしくて」


 そう言って、彼女は顔を赤らめる。

 その仕草が、たまらなく可愛かった。


「いいんじゃないか。橘さん、すごく喜んでたぞ」

「そうだと、いいんだけど……」


 彼女は、サンドイッチを一口かじると、ぽつりと呟いた。


「奏くんが、私を変えてくれたのよ」

「俺は、何もしてない。全部、響が自分で掴み取ったものだ」

「ううん。奏くんが、私のピアノを、私の心を、調律してくれたから。だから、私、もう一度、前を向けたの」


 彼女は、まっすぐな瞳で、俺を見つめていた。

 その瞳には、隠しようのない、好意の色が浮かんでいる。


 俺は、彼女の視線から逃れるように、慌てて弁当の卵焼きを口に放り込んだ。

 これ以上、見つめられたら、俺の心臓は、もたないかもしれない。


 彼女が奏で始めた、再生の前奏曲プレリュード

 その優しいメロディは、彼女自身だけでなく、俺の心をも、静かに、そして確かに、変えていこうとしていた。


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