第15話:希望の和音
俺が響のピアノの微細な不調を突き止め、修理したあの日から、彼女の様子は目に見えて変わった。
ピアノに対する恐怖心が、薄らいできたのだろう。
リハビリの時間は、日に日に長くなっていった。
そして、彼女が弾く曲も、単調な練習曲から、少しずつ、音楽的なものへと変わっていく。
バッハのインヴェンション、モーツァルトのソナタ。
まだ、ぎこちなさは残るものの、その一音一音には、音楽を奏でる喜びが、確かに満ち溢れていた。
俺は、そんな彼女の成長を、一番近くで見守れることに、この上ない幸せを感じていた。
俺たちの夕食の時間は、いつしか、その日のリハビリの報告会を兼ねるようになっていた。
「今日は、ここまで弾けるようになったの」
「すごいじゃないか。先週より、格段に指が動くようになってる」
「でも、このトリルが、まだ上手く弾けなくて……」
そんな、他愛もない会話。
だが、その全てが、俺にとっては宝物のような時間だった。
そんなある日の、夕食後のことだ。
響は、いつになく真剣な顔で、俺にこう切り出した。
「奏くん。お願いがあるの」
「なんだ?」
「一曲、聴いてほしいの。私が、最初から最後まで、通して弾くのを」
その言葉に、俺は驚いた。
今まで彼女は、曲の途中で指が止まってしまうことを恐れて、通しで弾くことを避けてきたのだから。
「……いいのか?」
「ええ。もう、大丈夫な気がするの。あなたがいるから」
そう言って、彼女は、俺の目をまっすぐに見つめた。
その蒼い瞳には、強い意志の光が宿っている。
俺は、その瞳に吸い込まれそうになりながら、力強く頷いた。
「わかった。聴かせてくれ」
響は、ピアノの前に座ると、深く、深く、息を吸った。
そして、ゆっくりと鍵盤の上に指を置く。
その姿は、まるで、これからステージに上がる演奏家のようだった。
どんな曲を弾くのだろうか。
俺は、固唾を飲んで、その瞬間を待った。
やがて、彼女の指から、最初の音が、静かに紡ぎ出される。
その、あまりにも優しく、そして切ないメロディに、俺はハッとした。
これは――ショパンの、ノクターン。
かつて、彼女が母親に罵倒されるきっかけとなった、因縁の曲。
トラウマの象徴とも言えるその曲を、彼女は、今、自分の意志で弾こうとしているのだ。
演奏は、完璧ではなかった。
時折、音が僅かに揺らぎ、テンポが乱れる。
だが、その一つ一つの不完全ささえもが、彼女の心の軌跡を物語っているようで、俺の胸を強く打った。
傷つき、迷い、絶望し、そして、俺と出会って、ほんの少しの希望を見つけた、一人の少女の物語。
その全てが、このノクターンに込められていた。
俺は、ただ、祈るように、その音色に耳を傾ける。
やがて、曲はクライマックスへと向かっていく。
彼女の指の動きが、次第に熱を帯びていくのがわかった。
鍵盤を叩くタッチが、力強くなっていく。
大丈夫だ、響。
最後まで、弾ききれる。
俺は、心の中で、彼女にエールを送る。
そして、ついに、最後の一音が、優しい余韻を残して、静寂の中に溶けていった。
やり遂げた。
彼女は、自分の力で、過去のトラウマを乗り越えるための、大きな一歩を踏み出したのだ。
演奏を終えた響は、しばらく鍵盤の上に指を置いたまま、動かない。
その肩が、小さく、震えている。
やがて、彼女はゆっくりと、ピアノの椅子を回転させた。
そして、俺の方を、振り返る。
その顔は、涙と、汗で、ぐしゃぐしゃだった。
だが、俺が見たどんな表情よりも、美しく、輝いて見えた。
彼女は、はにかみながら、心の底からの、満開の笑顔を見せた。
「弾けた……」
その一言に、全ての想いが込められていた。
俺は、立ち上がり、彼女の元へと歩み寄る。
そして、鳴り止まない拍手を、たった一人の大切なピアニストへと、送り続けた。
それは、この部屋でずっと響いていた、悲鳴のような不協和音を完全に浄化する、希望の和音だった。
俺たちの、新しい物語が始まる、ファンファーレだった。




