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第14話:調律師の横顔


 あの日、響が再びピアノに触れてから、俺たちの関係は新しい段階に入った。

 俺は宣言通り、彼女の『専属調律師』になったのだ。


 もちろん、毎日ピアノを調律する必要はない。

 俺の役割は、もっと別のところにあった。


「奏くん、この部分の和音、なんだか濁って聞こえない?」

「ん、ちょっと弾いてみて」


 放課後、俺たちは当たり前のように響の部屋に集まっていた。

 彼女は、少しずつ、本当に少しずつだが、ピアノを弾く練習――リハビリを再開したのだ。


 彼女が弾くのは、まだ簡単な練習曲ばかり。

 それも、一日に数分が限界だった。

 それ以上弾き続けると、母親の幻聴が聞こえてきて、指が動かなくなってしまうらしい。


 俺は、そんな彼女の隣に座り、ただ、その音に耳を澄ます。

 そして、彼女が不安を感じた時に、的確なアドバイスを送る。


「ああ、そこのミの音が、少しだけ低いな。響のタッチが、まだ迷ってるせいだ。もっと、鍵盤の底まで指を沈めるイメージで」

「鍵盤の底まで……こう?」


 彼女が、俺の言葉通りに指を動かす。

 すると、さっきまで濁っていた和音が、嘘のように澄んだ響きに変わった。


「……本当だ。音が、全然違う」


 響は、自分の指先と鍵盤を、不思議そうに交互に見ている。

 その顔は、新しい発見をした子供のように、キラキラと輝いていた。


 俺がしていることは、厳密には調律ではない。

 どちらかといえば、音楽の家庭教師に近いかもしれない。

 だが、俺はあくまで『調律師』として、彼女に寄り添っていた。


 なぜなら、『先生』になってしまえば、俺と彼女の間には、教える側と教えられる側という、明確な上下関係が生まれてしまうからだ。

 母親という絶対的な指導者に心を壊された彼女にとって、それは新たなプレッシャーになりかねない。


 俺は、対等な立場で、彼女の音を聞き、感じ、そして整える。

 ピアノの音も、彼女の心も。

 それが、俺の考える『専属調律師』の仕事だった。


 そんな日々を過ごすうちに、俺はあることに気づいた。

 ピアノに向き合っている時の響は、驚くほどの集中力を見せる。

 その真剣な横顔は、学校で見せる『氷の姫君』とも、俺の前でだけ見せるポンコツな素顔とも違う、第三の顔だった。


 それは、一人の音楽家としての、孤高で、美しい顔。

 俺は、その横顔を見るのが、好きだった。


 そして、彼女もまた、俺の『調律師』としての顔を、特別な眼差しで見ていることに、俺は気づいていた。


 ある日のことだ。

 ピアノの調律は完璧なはずなのに、どうしても一つの音だけが、僅かに狂って聞こえる、と響が言い出した。

 俺が何度聞いても、その狂いは感じ取れない。

 だが、彼女は頑なに「この音だけが、泣いているみたい」と言って譲らなかった。


「わかった。じゃあ、ちょっと見てみるか」


 俺は、工具のケースからチューニングハンマーを取り出した。

 そして、ピアノのパネルを外し、内部の弦を剥き出しにする。

 その手つきを、響は隣で、息をのんで見つめていた。


 俺の雰囲気が、一瞬で変わるのを、自分でも感じていた。

 いつもの、どこにでもいる穏やかな高校生ではない。

 亡き祖父から受け継いだ、ピアノと対話する『職人』の顔に。


 俺は、響が指摘した音の弦を、指先でそっと弾く。

 やはり、音程に狂いはない。

 だが、響は嘘を言うようなやつじゃない。

 彼女がそう感じたのなら、そこには必ず、何か原因があるはずだ。


 俺は、耳から入ってくる情報だけではなく、目と、指先の感覚、その全てを研ぎ澄ませる。

 弦を、ハンマーを、アクションと呼ばれる内部の機械装置を、一つ一つ、丁寧に確認していく。


 部屋に響くのは、規則正しい金属音と、時折鳴らされるピアノの単音だけ。

 それは、まるで神聖な儀式のようだった。

 響は、言葉を発することなく、ソファに座って、その光景をじっと見守っている。


 そして、俺はついに、原因を見つけ出した。


「……これか」


 原因は、弦でも、ハンマーでもなかった。

 ハンマーを動かすための、ほんの小さな部品の一つ。その動きが、コンマ数ミリ単位で、僅かに鈍っていたのだ。

 それが、音の立ち上がりに微妙な遅れを生み、響の鋭敏な耳には「音が泣いている」ように聞こえたのだろう。


 俺は、精密ドライバーを使って、その部品の位置を微調整する。

 そして、もう一度、その音を鳴らした。


 ポーン。


 今度の音は、さっきまでとは明らかに違った。

 迷いがなく、どこまでも真っ直ぐに、空間を突き抜けていくような、強い意志を持った音。


「……すごい」


 響が、感嘆の声を漏らした。

 彼女は、ソファから立ち上がると、俺の隣にやってくる。

 そして、俺の顔と、ピアノの内部を、尊敬の眼差しで見つめていた。


「どうして、わかったの? 私にも、原因まではわからなかったのに」

「調律師だからな。ピアノの声を聞くのが、仕事なんだ」


 俺が少しだけ得意げに言うと、彼女は、ふふっと小さく笑った。

 そして、ぽつりと、呟いた。


「思い出したわ……」

「え?」

「奏くんのお祖父様。昔、私の家のピアノを、調律してくださっていたの」


 彼女の言葉に、俺は息をのんだ。

 まさか、そんなところで、繋がりがあったなんて。


「とても、優しい方だった。いつも、ピアノに『今日もご機嫌いかがかな?』って、話しかけながら、調律していて……。今の奏くん、お祖父様に、そっくり」


 そう言って、彼女は、懐かしむように、優しく微笑んだ。

 忘れていた温かい記憶が、俺の存在によって、彼女の中で蘇ったのだ。


 その笑顔を見て、俺は、心の底から嬉しく思った。

 俺が、祖父の孫で、本当によかった、と。


 響は、真剣な俺の横顔に、かつての優しい老調律師の面影を重ねている。

 その事実が、俺たちの絆を、より一層、強く結びつけてくれるような気がした。


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