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第13話:一縷の望み


「専属調律師……」


 響は、俺の言葉を、呆然と繰り返した。

 その蒼い瞳には、戸惑いと、そしてほんの僅かな期待の色が揺らめいている。


「そんなこと……」

「ダメか?」


 俺が尋ねると、彼女は慌てたように、ぶんぶんと首を横に振った。


「ダメじゃない! ダメじゃないけど……でも、私……もう、弾けないかもしれないのに……」


 声が、どんどん小さくなっていく。

 彼女は、俺の申し出を嬉しいと思ってくれている。

 だが、それに応えられないかもしれないという恐怖が、彼女を躊躇させているのだ。


 母親に植え付けられたトラウマは、それほどまでに根深い。


「弾けなくてもいい」


 俺は、きっぱりと言った。


「え……?」

「俺は、響にピアノを弾けって強制したいわけじゃない。ただ、ピアノと仲直りしてほしいだけなんだ」


 俺は、ピアノの方へと歩み寄る。

 そして、その美しいボディを、優しく撫でた。


「こいつは、ずっと君を待ってる。君に、また触れてもらえる日を。君の指が奏でる、優しい音色を、ずっと」


 それは、亡き祖父の受け売りだった。

『ピアノはな、正直なんだ。弾き手の心を全部映しちまう。だから、ピアノを大切にできないやつは、いい演奏なんてできねえんだ』

 祖父は、いつもそう言っていた。


 俺の言葉を聞きながら、響も、ゆっくりとピアノに近づいてきた。

 その指先が、ためらうように、鍵盤の蓋へと伸びる。

 だが、触れる寸前で、ぴたりと止まってしまった。


 彼女の脳裏に、また、あの忌まわしい記憶が蘇っているのかもしれない。


「大丈夫」


 俺は、彼女の震える肩に、そっと手を置いた。


「俺がいる」


 短く、しかし、力の限りを込めて、そう告げる。

 俺の体温が、彼女に伝わったのだろうか。

 彼女の体の強張りが、ほんの少しだけ、和らいだように感じられた。


 響は、意を決したように、ゆっくりと鍵盤の蓋を開けた。

 現れた白と黒の鍵盤は、昨夜、俺が完璧に調律した時と、何も変わっていない。

 ただ、主の訪れを、静かに待っている。


 彼女の指が、震えながら、鍵盤へと伸びていく。

 そして――。


 ポロン。


 一つの音が、静かな部屋に響いた。

 それは、決して美しい音ではなかった。

 力が入りすぎて、少しだけ、濁っている。


 だが、俺にとっては、世界で一番、美しい音に聞こえた。

 絶望の淵にいた少女が、再び音を奏でた、その最初の音なのだから。


 その一音を皮切りに、彼女の指が、おそるおそる、鍵盤の上を彷徨い始める。

 ポロン、ポロン、と途切れ途切れに、音が紡がれていく。

 それは、曲にさえなっていない、ただの音の羅列。


 だが、それでいい。

 それがいい。


 彼女は今、ピアノと対話しているのだ。

 久しぶり、元気だった?

 ごめんね、ずっと放っておいて。

 そんな、言葉にならない会話を。


 やがて、彼女の指の動きが、止まった。

 顔を上げると、その瞳は、涙で溢れていた。

 でも、それは、昨夜見せた絶望の涙ではなかった。


 安堵と、喜びと、そして、確かな希望の光を宿した、温かい涙だった。


「……音が、鳴った」


 彼女は、信じられないというように、自分の指先を見つめている。


「当たり前だろ。こいつは、君のピアノなんだから」


 俺がそう言って笑いかけると、彼女も、つられるように、ふわりと微笑んだ。

 それは、俺が今まで見た中で、一番美しい笑顔だった。


「ありがとう……奏くん」


 その笑顔と言葉だけで、俺の心は、完全に満たされた。

 俺が彼女の隣にいる理由は、もう、これだけで十分だった。


 諦めていたはずの、美しい音色への渇望。

 失ってしまったと思っていた、ピアノとの絆。

 その一縷の望みに、彼女は、今、確かに手を伸ばしたのだ。


 俺たちの、長くて、そして優しいリハビリが、今、静かに始まろうとしていた。


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