第12話:俺にしかできないこと
「……入って」
月宮の言葉に、俺は少しだけ驚きながらも、黙って頷いた。
もっと、拒絶されるかと思っていたからだ。
昨夜、あれだけ無防備な姿を晒してしまったのだ。俺の顔を見るのも嫌なくらい、気まずく思っているのではないかと。
彼女の後について、部屋に入る。
綺麗に片付いた部屋は、静まり返っていた。
そして、部屋の中央には、美しく調律されたグランドピアノが、まるで主役のように鎮座している。
「これ……夕飯。温かいものの方がいいかと思って」
俺は、手に持っていたポトフの入ったタッパーを、テーブルの上に置いた。
月宮は、そのタッパーをちらりと見ると、小さく「ありがとう」と呟いた。
重い沈黙が、部屋を支配する。
俺も彼女も、何から話せばいいのか、言葉を見つけられずにいた。
昨夜の出来事が、あまりにも衝撃的すぎたのだ。
「あのさ、昨日のことだけど……」
俺が意を決して口を開くと、彼女はびくりと肩を震わせた。
やはり、触れてほしくない話題だったか。
「……ごめんなさい」
俺の言葉を遮るように、彼女が絞り出すような声で言った。
「え?」
「みっともないところ、見せて……。迷惑、かけたわよね」
俯いた彼女の顔は、長い前髪に隠れて見えない。
だが、その声は、後悔と自己嫌悪で震えていた。
迷惑?
違う。そうじゃない。
「迷惑だなんて、思ってない」
俺は、はっきりと否定した。
「俺は、嬉しかったんだ」
「……え?」
意外な言葉だったのだろう。
彼女は、驚いたように顔を上げた。
その蒼い瞳が、戸惑ったように俺を見つめている。
「月宮が、俺にだけ、本当の気持ちを見せてくれた。そう思ったら、嬉しかった。頼ってくれて、ありがとう」
それは、俺の偽らざる本心だった。
彼女が抱える闇の深さに触れた時、恐怖や同情よりも先に感じたのは、信頼されたことへの喜びだったのだ。
俺の言葉に、彼女の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
また、泣かせてしまうかと思った。
だが、彼女はぐっと唇を噛み締め、涙をこらえる。
「奏くんは……優しいのね」
初めて、彼女が俺を下の名前で呼んだ。
その響きが、心臓を直接掴まれたかのように、俺の胸を締め付けた。
優しい、か。
そんな単純なものじゃない。
俺が彼女にしていることは、優しさというよりも、もっと身勝手な感情だ。
ただ、彼女のそばにいたい。
彼女の力になりたい。
そして、いつか、彼女のあの悲しいノクターンを、喜びのプレリュードに変えてやりたい。
そんな、独りよがりな願い。
「奏くんは、どうして……私に構うの?」
以前にも、同じことを聞かれた。
その時は、答えられなかった。
だが、今は違う。
「放っておけないからだよ」
俺は、まっすぐに彼女の目を見て答えた。
「君のことも、君のピアノのことも。俺は、もう放っておけない」
それは、ほとんど告白に近い言葉だった。
俺の言葉の真意に気づいたのか、彼女の白い頬が、ぽっと赤く染まる。
俺は、彼女から目を逸らすと、部屋の中央にあるピアノへと視線を移した。
昨夜、俺が魂を込めて調律した、美しいピアノ。
だが、その音は、まだ誰にも届いていない。
一番届けたいはずの、持ち主にさえも。
彼女の心を壊したのがピアノなら、彼女を救うのもまた、ピアノしかない。
そして、そのための手伝いができるのは、この世界で、俺だけだ。
俺にしか、できないことがある。
俺は、ある一つの決意を固めた。
それは、ただの調律師の孫としてではなく、音無奏という一人の男としての、覚悟だった。
俺は、再び彼女に向き直る。
彼女は、まだ頬を染めたまま、不安そうに俺を見つめていた。
「月宮」
「……ひびき」
「え?」
「響って、呼んで」
彼女の、思いがけない言葉。
俺は、自分の耳を疑った。
「い、いいのか?」
「……奏くんが、いいなら」
もごもごと、恥ずかしそうに言う彼女。
その破壊力は、凄まじかった。
俺は、高鳴る心臓を必死に抑えつけながら、咳払いを一つする。
「……わかった。じゃあ、響」
「……はい」
名前を呼んだだけで、空気が甘くなったような気がする。
いかん、いかん。本題を忘れるところだった。
「響。俺に、君のピアノの専属調律師を、やらせてくれないか?」
「専属……調律師?」
彼女は、きょとんとした顔で、俺の言葉を繰り返す。
俺は、力強く頷いた。
「ああ。君が、もう一度ピアノと向き合えるようになるまで。いや、その後もずっと。君のピアノの音は、俺が責任を持って守る。だから――」
俺は、彼女の前に、そっと手を差し出した。
「もう一度、ピアノと、友達になってやってくれないか?」
それは、俺にしかできない、最高の提案であり、そして、最高の願いだった。




