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第10話:壊れたノクターン


「任せろ」


 俺が力強く応えると、月宮は安堵したように、小さく息を吐いた。

 その顔には、まだ不安の色が浮かんでいる。

 それはそうだろう。自分の心臓とも言える大切なピアノを、得体の知れない同級生に預けるのだから。


 言葉で安心させるのは、簡単だ。

 だが、俺は行動で示すことにした。


 俺は椅子から立ち上がると、ピアノの屋根を支える突上棒を外し、重い天板をゆっくりと下ろした。

 次に、鍵盤のすぐ上にある、細長い板――上パネルと呼ばれる部分を、慎重に取り外す。


 ギ、と小さな音を立ててパネルが外れると、ピアノの内部構造が露わになった。

 そこには、幾重にも張り巡らされた金属の弦と、それを叩くためのハンマーが、複雑な機械装置のように整然と並んでいる。

 まさに、楽器の心臓部だ。


 その光景に、月宮が「あっ」と小さな声を漏らした。

 俺の手つきが、思いのほか手慣れていたことに驚いたのかもしれない。


 俺は、彼女の方を振り返らずに言った。


「ここから、少し時間がかかる。座って待っててくれ」


 彼女は、何も言わずにこくりと頷き、少し離れたソファに、ちょこんと腰を下ろした。

 その姿は、まるで手術室の前で、家族の無事を祈る人のようだ。


 俺は、再びピアノに向き直る。

 ここからが、本番だ。


 チューニングハンマーを手に、基準となる中央の『ラ』の音に対応する、チューニングピンに差し込む。

 そして、左手で鍵盤を叩き、音叉で正しい音程を確認しながら、ハンマーを握る右手に、ミリ単位の力加減で捻りを加えていく。


 キィ……ン。


 金属と金属が擦れる、甲高い音。

 そして、弾かれた弦の音。


 その二つの音だけが、静まり返った部屋に響き渡る。

 俺は、全神経を耳に集中させた。

 音の僅かな揺らぎ、唸り、濁り。その全てを聞き分け、完璧な一点へと合わせていく。


 それは、途方もなく繊細で、根気のいる作業だった。


 どのくらい、時間が経っただろうか。

 気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 部屋の中は、オレンジ色の間接照明だけが、俺と月宮、そしてピアノを照らしている。


 ソファに座る月宮は、いつの間にか、こくりこくりと舟を漕いでいた。

 慣れない大掃除で、疲れていたのだろう。

 その無防備な寝顔は、学校で見せる『氷の姫君』の仮面を完全に脱ぎ捨てていた。


 俺は、作業の手を止めることなく、そんな彼女の姿を横目で捉える。

 なぜ、彼女はピアノが弾けなくなったのだろうか。


 表紙を飾った雑誌。

 『天才少女』という、重い称号。

 そして、今の、壊れてしまったかのような彼女。


 きっと、俺の想像もつかないような、深くて暗い理由があるに違いない。

 俺が、その領域に踏み込んでいいはずがない。


 でも、俺は知ってしまった。

 彼女の弱さを、脆さを。

 そして、放っておけないと思ってしまった。


 俺にできることは、多くない。

 ただ、この狂ってしまったピアノの音を、元に戻してやること。

 それが、今の俺にできる、唯一のことだった。


 俺は、再び作業に没頭する。

 一つ、また一つと、弦が正しい音を取り戻していく。

 それはまるで、絡まった糸を、一本一本丁寧に解きほぐしていくような作業だった。


 そして、ついに最後の弦の調律が終わった時、俺は額の汗を手の甲で拭い、大きく息を吐いた。


「……終わった」


 俺の呟きに、月宮が、はっと目を覚ました。


「……え? あ、ごめんなさい、私……」

「いいよ、疲れてたんだろ」


 俺は、取り外していた上パネルを元に戻し、鍵盤の蓋をゆっくりと開ける。


 さあ、聴いてくれ。

 これが、君のピアノが、本当に出したかった音だ。


 俺は、両手で、力強く和音を奏でた。


 ジャーン……!


 響き渡ったのは、淀みなく、どこまでも澄み切った、完璧なハーモニー。

 それは、この部屋にずっと満ちていた、悲鳴のような不協和音を浄化し、洗い流していくかのような、希望の音色だった。


 月宮は、その音のあまりの美しさに、ただ立ち尽くしていた。

 その大きな蒼い瞳から、一筋の涙が、すーっと頬を伝っていくのが見えた。


「綺麗……」


 それは、ピアノの音色へ向けられた言葉であり、俺の心へ向けられた言葉でもあったのかもしれない。


 涙は、一筋だけでは終わらなかった。

 大粒の雫が、次から次へと、彼女の瞳から溢れ出してくる。


「弾けないの……弾きたくても、弾けないの!」


 彼女は、嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちた。

 まるで、心のダムが決壊したかのように。


「お母様の声が、聞こえるの……!」


 彼女の口から、初めて、その単語が出た。

 お母様――。


「コンクールで失敗した日……私は、出来損ないだって……私のキャリアに傷をつけただって……!」


 途切れ途切れに語られる、断片的な記憶。

 それは、彼女の心を壊した、呪いの言葉。


「ピアノの前に座ると、あの声が……鍵盤が、私を拒絶するの……!」


 絶望を吐露する彼女の姿に、俺はかける言葉も見つからなかった。

 ただ、彼女のそばに駆け寄り、その震える小さな肩を、強く抱きしめることしかできなかった。


 俺の腕の中で、彼女は子供のように、声を上げて泣きじゃくった。

 それは、壊れた夜想曲ノクターン

 あまりにも、悲しい旋律だった。


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