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第9話:静寂の部屋と、悲鳴を上げるピアノ


 あのアクシデントの後、俺と月宮は、互いに顔を合わせられないまま、黙々と掃除を続けた。

 ぎこちない沈黙が部屋を支配していたが、不思議と、それは嫌なものではなかった。


 夕方になる頃には、丸一日かけた大掃除が、ようやく終わりを迎えた。


「……終わったな」

「……ええ」


 見違えるように、綺麗になった部屋。

 床には物がなくなり、窓から差し込む西日が、磨かれたフローリングに反射してキラキラと輝いている。

 空気も、心なしか澄んでいるように感じられた。


 月宮は、綺麗になった自分の部屋を、呆然と、しかしどこか嬉しそうに見回していた。

 その横顔を見て、頑張った甲斐があったな、と俺は心から思う。


 部屋が片付いたことで、一つの家具が、圧倒的な存在感を放っていた。


 部屋の中央に置かれた、グランドピアノだ。


 俺は、まるで何かに引き寄せられるように、自然とピアノへと歩み寄っていた。

 天板に積もっていたホコリは、掃除の過程で綺麗に拭き取られている。

 黒く艶やかなそのボディは、まるで鏡のように、俺の顔を映していた。


 俺は、ゆっくりと鍵盤の蓋に手をかける。

 隣に立つ月宮が、ごくりと息を飲む音が聞こえた。


 重厚な蓋を開けると、白と黒の鍵盤が、ずらりと並んでいた。

 それは、まるで美しい歯並びのようだ。

 だが、その鍵盤の一つ一つには、見えないホコリが積もっているような、そんな淀んだ空気が漂っていた。


「……弾いて、みてもいいか?」


 俺の問いに、月宮は黙って頷いた。


 俺は、ピアノの前に置かれた椅子に、そっと腰を下ろす。

 指先に、ひんやりとした鍵盤の感触が伝わってきた。


 深く、息を吸う。

 そして、試しに、真ん中の『ド』の音を、一つだけ鳴らしてみた。


 ポーン。


 静かな部屋に、一つの音が響く。

 だが、その音は。


「……ひどいな」


 俺の絶対音感には、耐え難いほど、狂っていた。

 本来あるべき音程から、半音近くもずれている。

 それはもはや、『ド』の音ではなかった。


 俺は、いくつかの和音を弾いてみる。


 ジャラァァン……。


 それは、音楽ではなかった。

 ただの、不快な音の塊。

 それぞれの音が、互いに反発し合い、唸りを上げている。

 まるで、ピアノという楽器そのものが、その存在自体で悲鳴を上げているようだった。


 このピアノは、泣いている。

 ずっと、誰にも気づかれずに、この部屋で一人、泣き続けていたんだ。


 俺が顔を上げると、月宮が、顔を青ざめさせて立ち尽くしていた。

 その蒼い瞳は、ピアノから目を逸らすように、床の一点に向けられている。

 自分の分身であるピアノの、あまりにも惨めな声を聞くのが、辛いのだろう。


 彼女の、震える唇が、小さく動いた。


「お願い……します」


 それは、祈りにも似た、懇願だった。


「この子を……助けてあげて」


 俺は、彼女の言葉に、力強く頷いた。


「ああ。任せろ」


 俺は、持参した革製のケースを開く。

 中には、亡き祖父の形見である、ピアノ調律工具一式が、整然と並んでいた。

 使い込まれたチューニングハンマーを、手に取る。

 ひんやりとした金属の感触が、俺の覚悟を、より一層固くしてくれた。


 さあ、始めよう。

 君と、君のピアノのための、再生の儀式を。


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