番外編 このすべてに名前をつけるならば(後)
公演が終わっても、リチャードは席を立つことができなかった。
一目散に駆けていけるほどの情熱のある若者ではなくなってしまっていたから。
「あら、リーシィ。まだこんなところにいらしたの?」
声をかけてきたのは、ショコラだった。
ハイロン独自の民族衣装をアレンジしたドレスに、毛皮の外套を羽織る姿は、妙に圧倒されてしまう。
美しい耳飾りを揺らしながら、小首を傾げて言った。
「ああ、後片付けが終わるのを待っているのかしら。そうねぇ、あと小一時間もしたら、裏口に回るといいわ。劇団員達は同じところで寝泊まりするものらしいけれど、彼女は今日でおしまいだから。ホテルにでも帰るんじゃないかしら」
女の準備には時間がかかるものですものと、ショコラは笑みを浮かべながら言った。
「外にある花売りから、切花でも買って用意したらいかが? ふふっ、気の利く男は好印象でしてよ。……それじゃ、私はこれで。外の馬車に夫を待たせているので」
「……貴方は、会った方がいいと思っているのか?」
立ち去ろうとするショコラに、リチャードは反射的に声をかけていた。
ぴたりと足を止めたショコラは振り返り、不思議そうな視線を向けている。
「私の意見など、貴方がどう行動するかに関係ありませんことよ、リーシィ。背中を押してほしいとおっしゃるのなら、指で突いて差し上げますけれど。……高くつきましてよ」
煽るような言葉だったが、それでもリチャードはショコラに尋ねるのをやめられなかった。
予想外の再会に、動揺していたというのもある。そして昔の後悔が、リチャードを苛んでいたのだ。
「彼女を見殺しにしたようなものなんだ。それなのに今更、どの面下げて会えばいいんだ」
「あらまあ」
呆れたような声色で、ショコラが吐息をもらした。
そしてリチャードの隣の席に座ると、指先を眼前に突きつけた。
「そのくたびれた顔で会いに行くしかありませんでしょう、リーシィ。王太子リチャードなどという人は、もうこの世界には存在しませんのよ」
戻りたくたって戻れませんもの。
ショコラ、王国がないとはっきりと言い切った。
弟も、婚約者も、父親も。
誰も彼も、もう存在などしない。
「貴方の名前はリーシィ。閑古鳥の鳴く雑貨商の雇われ店主、でしょう」
隣に座るショコラの瞳が、リチャードを覗き込んでいた。
そこにどんな感情があるのか、何もわからない。
リチャードはずっと、ショコラーテ・ブノワという女が恐ろしかった。弟のブラン・ブノワもそうだ。
笑っているくせに、笑っていない。
感情豊かなはずなのに、何の感情も読めない。
深淵の闇を覗き込んでいるかのような。
けれどもその闇が、今は少し心地よい気がする。
それはもう二度と、表舞台という場所に立てないからかもしれないが。
リチャードは大きく息を吐くと、笑みを浮かべて言った。
「それもそうだな。けれど、閑古鳥が鳴くというのは、少し酷くないか?」
「あらまあ、そうかしらねぇ」
密やかに笑うショコラに、リチャードはお礼を言った。
「時間を取らせてすまなかった、チャオコーリー夫人」
「構わないわ。……後でお代は請求するけれど」
「お手柔らかに頼む」
リチャードの言葉に、ショコラは笑うだけで何も言わなかった。手を振って劇場を後にしていくだけだ。
本当に高いお代が請求されそうだと、リチャードは乾いた笑みをもらした。
***
ランファは一人、劇場の裏口から外へと出た。
今日でもう、女優はおしまい。
しばらくはホテルに滞在して、それから家を見つけて、新しい仕事も探さなければならないだろう。
何をしようかと考えても、何も浮かばない。
人からああしろ、こうしろと、言われ続けてきた人生だったから。
いざ自由にしてよい状況になっても、何も思い浮かばない。
幼い頃にずっと欲していた自由は、拠り所のない不安しかなかった。
裏路地から表通りへ出ようとしたところに、男が立っているのが見えた。
ハイロンに住む王国人だろうか。
色褪せた外套に帽子を被っている姿は、どこか草臥れている。
もしかして劇団員の誰かのファンなのか。でもそういった人達はいつも、手に花や贈り物などを持っていることが多い。
ただ立っているだなんて、誰かと待ち合わせでもしているのかと、そう思った時だった。
「……美しき貴方。どうか一曲、踊っていただけませんか?」
男の声は、とても緊張しているようだった。
遠い昔に聞いたことのある言葉だったけれど、もう声など覚えていない。
はたして彼は、こんな声をしていたのだろうかと、ランファは瞬きを繰り返す。
差し出された手は、かつての舞踏会の夜に見た、綺麗で汚れひとつない王子様の手ではなかった。
荒れているし、傷もついている。
とても苦労したのだろうことがわかる、男の手だった。
「やっぱりもう、だめかな。今更、遅すぎたかもしれない。……あの日、貴方一人が森の中を駆けていく姿を、追いかけることもできなかった男は、二度と見たくもなかったかな」
それだったら謝罪だけでもと、男は言葉を続けた。
ランファは驚きで目を見開くばかりで、言葉を発することも、動くこともできなかった。
だってまさか、あの日もう二度と会うことはないと、そう思った人が、目の前にいる。
「生きて……、生きていてくれたのね」
「ああ、貴方のおかげで」
口元に笑みを浮かべて、彼は言った。
もうずっと見ていないのに、彼のその仕草はとても見覚えがあるもので。
若かったあの頃の、ほんの少しの間の、鮮烈な記憶が蘇ってくる。
「他のみんなは?」
「エドモンは連合王国で画家として活動している。名前を聞けば驚くかもしれない。ジョセフは念願の学者になって、本国で働いているよ。アシルは大農家に婿入りして、今は七人の子持ちだ」
全員名前を変えているけれど、と付け足された。
それでも彼の友人達は、やりたいことをやれるようになっているみたいで、ランファは安心した。
王国にいた頃の彼らは、とても苦しんでいたから。
「……貴方は?」
「経営者として大成功しているんだ。店もいくつも経営していて、不自由のない暮らしを謳歌しているよ」
大仰に手を振って話した彼は、すぐに自重気味な笑みを浮かべて言った。
「本当は、ただの雇われ店主だ。財産なんてものはない。身分も、権力も。友人達には才能があったが、私には何もなかった。……私に残されたものは、偽名だけだよ」
被っていた帽子を外して、彼はおどけたようにお辞儀をした。
久しぶりに見る彼の笑顔は、相変わらず太陽のようだった。けれど歳を重ねたからなのか、若い頃に見た時よりも少しだけ、鮮烈な眩しさが柔らかくなったような気がする。
でもそっちの方が、ランファにとっては心地良い。
「それで、どうだろう。美しい貴方。ダンスの方は?」
「私がダンスが苦手なの、知っているでしょう」
「でも、一度くらいは誘いを受けてくれないか」
ランファは男へと手を伸ばす。けれど触れる直前で、動きを止めた。
驚いた様子の彼を見て、ランファはもう一度笑った。
「初めてダンスを踊るのなら、夫とがいいわ」
「それは失礼」
そう言って男は手を引っ込めてしまう。まさか意味が通じなかったのかと不安に思うランファの前で、男は跪いた。
優しく丁寧に、まるで壊れ物でも扱うかのように、ランファの手をとり――。
「私の妻になって欲しい」
名前を名乗れない男からの求婚を、女は微笑みながら頷いて受け入れた。
強く手を握りしめ、女は男を立たせると、その耳元で囁くように言った。
「ねえ、貴方の好きな名前で私を呼んで。貴方だけの、私の名前をちょうだい。私はね、名前すらももっていないの」
飾り付けされた男爵家のホール。
朽ちたとはいえ広々とした太公の屋敷。
人々が集まる華やかな舞踏会。
そのどこでもない、異国の劇場裏の薄汚れた路地で。
出自や身分で咎められることもなく。
名前すらない二人は、初めて誰にも邪魔をされずにダンスを踊ったのだった。
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ショコラとアランのハイロンでのエピソード追加してます!
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