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番外編 このすべてに名前をつけるならば(前)

時系列的にいうと本編終了後からとっても後の話。

 父が本国からわざわざ新聞を取り寄せているのは知っていたけれど、ショコラの興味を引くものは特段なかったので、見せてほしいとせがんだことはなかった。

 けれどもその日、食後のお茶を飲みながらゆったりと新聞を読む父の姿が目に入り、その記事を見つけた。

「お父様、その新聞。読み終わったら、私にいただけませんか?」

「おや、うちのお嬢さんがめずらしいこともあるものだ。なんだい、なにか気になるものでもあったかい」

 エリオットはすぐに新聞をショコラへと手渡してくれる。

 そこには遠く離れた王都で人気の舞台劇の記事が載っていた。

「お父様。私、立派な劇場で夫と舞台を鑑賞したいですわ」

「おやおや、うちのお嬢さんは幾つになってもおねだりばかり。いいよ、ハイロンに大きな劇場を建てよう」

「ありがとう、お父様!」

 和やかな会話が終わり、ショコラは新聞を持ったまま機嫌よく自室へと戻った。

 夫のアランはあまり早く起きれないため、朝食は部屋でとるのが常だ。そのためショコラが家族と朝食を終え語らった後で、枕元へ座り起こすのがちょうどいい。

 焼け爛れて皮膚が引き攣っている頬を、優しく手で包み込むようにして触れた。

 そうしてショコラは、アランの耳元に息を吹きかけるようにして、おはようの言葉を囁いたのだった。







 ***







 昼過ぎ、ショコラは人力車に乗り、買い物に出掛けていた。

 王国にいた頃は馬車が主な移動するための手段だったけれど。ここハイロンは道が狭く、人力車を使うのが一般的だった。

 日傘を刺しながら乗る人力車もまた悪くない。

 今度アランを誘って街の中を人力車で巡ろうかしらと思うが、果たしてあの夫は承諾してくれるかどうか。

 アランはあまり外に出かけたがらない。

 家の庭で花の鉢植えをいじっているのが楽しいらしい。

 満開に咲いた花を見て嬉しそうに笑い、ショコラに捧げてくれる姿は、本当に幾つになっても可愛らしくて堪らない。ショコラは一人、うっそりと思い出し笑いをしていた。

「奥様、到着しました」

「ありがとう」

 馬車が止まったのは、一軒の雑貨店だった。

 古びた看板に、雑多に並んだ古美術品。剥製や金魚鉢など、さまざまなものが積み上がっている店へと、ショコラは迷うことなく入っていく。

 扉を開けると、古いベルが鳴った。碌に手入れしていないらしいベルは、来客を告げるには心許ない。

「あらまあ」

 ショコラは笑いながら、雑然とした店の中を奥へと歩いていった。

 店内と同じように、様々なものが散らかったカウンターに足を乗せ、店員が椅子にもたれて居眠りをしているのを発見した。顔には本が目隠しがわりにのせられている。

 コツコツとカウンターをノックしてみても、店員が起きる気配がない。

 ショコラは薄く微笑みを浮かべると、店員さんと声を出して呼びかけた。

「……店員さん。リーシィ、起きてくださらないかしら。ねえ、……()()()()()()()()殿()()

 最後の名前を囁くように呟くと、店員が慌てて飛び起きて、椅子から転げ落ちた。

 ショコラが口元を押さえながら、あらまあと笑うと、草臥れた店員は眉を寄せながら立ち上がった。

「随分と懐かしい名前で呼ぶんだな、ショコラ夫人」

「お寝坊な店員さんには、いささか刺激が強すぎたかしら? お久しぶりね、リーシィ」

「相変わらず、あなたはとても美しい。どんな宝石でも霞んでしまいそうだな。歳を重ねるごとに、あなたは美しさに磨きがかかる」

「ふふふ、お上手だこと。リーシィもお元気そうで何より。商売は順調かしら」

 リーシィと呼ばれたリチャードは、肩を竦めて笑ってみせた。

「大繁盛過ぎて休む暇もない」

「あらまあ、それは良かったですわ。……ねえ、リーシィ。あなた、舞台はお好き?」

 唐突な質問にリーシィは眉を寄せた。ショコラの質問の意図を探るような視線を向けてくる。ショコラに他意はないのだけれど。

 ハイロンにたどり着いた頃のリチャード達にはお金がなかった。だからショコラは親切にいくつか仕事を紹介してあげたのに、いつの頃からかやたらと警戒されるようになってしまった。まったく心外だわと、ショコラは小さくため息を吐く。

「……好きか嫌いかで言えば、好きだが。ハイロンにある劇場でやってる舞台は好かない」

「あれはあれで刺激的で面白いのに」

 見目麗しい女性や男性が、服を少しずつ脱いでいくという、なかなかに際どいものが毎夜催されている。ショコラも付き合いで鑑賞したことがあったが、割と楽しめた。

 リチャードの信じられないものを見るような視線に対し、あなたも舞台に出てみるかと尋ねると、全力で断られてしまった。

「あらまあ、残念」

「まさかとは思うが、ショコラ夫人。ハイロンにある劇場の支配人はもしや」

「経営しているのは私じゃないわ、リーシィ」

 ホッと胸を撫で下ろすリチャードに、ショコラはにっこりと笑顔で言葉を続けた。

「でもその経営をしている支配人を雇っているのは、私ということになりますわね」

 リチャードは思い切り咳き込み、咽せている。何をそんなに驚いているのか、ショコラにはさっぱりだった。

 別にショコラは何も隠していない。ただハイロンはどちらかといえば男性優位の社会であるので、支配人などの地位に置くのは男性の方が面倒ごとが少ない。利点があるから、ちゃんとショコラの言うことを聞く良い子を雇ってあげているのだ。

 もちろん、売り上げを誤魔化したり、ショコラの言うことを聞かない悪い子は、おしおきしているので問題ない。

「……ハイロンの花街を仕切っている裏の支配者とやらは、あなたなんだな」

「さあ、私は私のことをどう呼ばれようとも、興味はさしてありませんことよ。私は、私が必要とする物を、滞りなく手に入れる環境が欲しいだけ」

 ショコラは化粧品にはこだわりがある。それから美容にも気を使っていた。夫のアランに綺麗だと言われたいのは間違いないけれど、ショコラは自分自身が美しいと思う姿に着飾るのが好きだったからだ。

 そのため王国にいた頃から、そういったことの商売に手を出していた。もちろん、父ほどのめり込んでいたわけではないが、それなりに結果は出ていたけど、そこで出た儲けを使うことはなかった。

 なにせ父ときたら、ショコラにとても甘い。欲しいとねだったものは基本的に与えてくれるので、お金を使う必要がなかったのだ。

 それは、ハイロンで暮らす今もそうだけれど。

 やっぱり自分が欲しいものは自分で手に入れられるように、環境を整えた方が一番いい。

 化粧品に美容の情報。好みのドレス。

 そういったものは、花街ほど手に入る。

 だから王国でやっていたように、ショコラはハイロンでも同じようにやったのだ。

「花街を潰そうとしたハイロンの総督を黙らせたのは……」

「この歳になっても父親に養われている娘に、そんな力などありませんわ、リーシィ」

 ショコラは持っていた扇子で口元を隠した。なにせショコラは何もしていない。

 せいぜいやったことと言えば、本国のお偉方の一人にプレゼントを贈っただけだ。それを見て感激してくれたらしい。

 お偉方の一人は、大急ぎてハイロンへとやってきて、総督府の人間を入れ替えて、そしてまた帰っていったのである。せっかく本国からはるばる来たのだから、おもてなしをしてあげようと思っていたのに残念だったわと、ショコラはため息を吐いた。

「それでまた、何か仕事のご依頼でも?」

「いいえ、それはまたの機会に。今日はお礼を言いにきましたの」

「お礼?」

「ええ、毎年素敵な花の種をありがとうございます、リーシィ。おかげで夫が楽しそうに花を育てていますのよ」

 それは良かったと、リチャードは肩を竦めた。

 嘘偽りないお礼の言葉だったのだけれど、どうにもリチャードは疑うような目をしている。

 以前、もうずっと昔のことだったけれど。

 リチャードがハイロンに来てトラブルに巻き込まれた時、ショコラが少しだけ手助けをした。そのお礼がしたいと言ってきたので、花の種を届けてほしいとお願いしたのだ。ショコラとしては一度きりのつもりだったのだけれど、リチャードは律儀にも毎年、花の種を贈ってくれていた。

 そろそろお返しをしないとと思い立ったショコラは、リチャードのもとを訪れたのである。

「これをどうぞ」

「……舞台のちらし?」

「ええ、来年あたりに大劇場を完成させる予定なの。本国で有名な劇団を呼び寄せるつもりだから、ぜひ招待をと思って」

「予定が合えば行こう」

「うふふ、そんなつれないことおっしゃらないで。忘れられない夜にして差し上げましてよ」






 ***






 仕事と言って、断ってしまおうか。当日までリチャードは行くのを躊躇っていた。

 だがしかし、招待状を寄越したのは、あのショコラーテ・ブノワだ。もうブノワ伯爵家の令嬢ではなく、チャオコーリーというハイロンの豪商の娘という身分になっていたが、あの恐ろしい女なのだ。

 リチャードはため息を吐くと、草臥れた背広を整えて、劇場の中へと足を踏み入れた。

 ショコラは自身で宣言した通り、一年ほどでハイロンに大きな劇場を建てた。土地の買収はあっさりと終わり、花街は綺麗に整備され、なんともまあまともな美しい街並みに変化したことか。

 治安はさらに改善され、劇場のある通りには洒落たカフェや店が立ち並んでいたのだ。

 リチャードのような独り身の観覧者も多いが、若い女性の姿も多い。

 王国にいた頃では考えられないほど、若い女性は自由に、楽しそうに、ハイロンで暮らしている。

 制服のある学校に友人達と連れ立って通う姿だったり、カフェに入って笑って話す姿だったり。

 それから総督府の人間に女性の姿が普通にまじっていたり。

 ああ、時代はもう、ずいぶんと変わったのだな。

 リチャードはいつもそう思ってしまう。

 案内された席に座り、ため息を吐いた。

 旧時代の遺物でしかない。

 リチャードが王太子だったあの王国。弟が王太子になった後、とうとう崩壊してしまったあの国の名前など、覚えている人間がいるかどうか。

 レオナールが死んだ後、民衆は市民軍を結成し王宮を襲撃した。その後、有志を募り新政府を樹立したが、一般市民の中で政治をきちんとできる者などおらず。

 貴族を虐殺するだけ。

 結局残ったのは、行くあてもない疲弊した市民のみ。

 周辺の国々が、王国を分割してそれぞれ吸収し、混乱は終焉を迎えたのだ。

 リチャードはそれを、このハイロンの地で、新聞を見て情勢を見ていただけ。

 何もしてない。

 レオナールが死んだ知らせを受けとったその日に、大公領から逃げたのだ。

 あそこにいたのなら、リチャードに残されたのは、断頭台への道だけだ。王として即位して、市民の不満を解消するためだけに殺される。なんて滑稽な未来だろう。そんなことは絶対に嫌だった。

 断頭台に送られるのは、リチャードだけではないだろう。一緒に大公領へついてきてくれた友人達、彼らも元を辿れば高位貴族なのだから、殺されるのが目に見えていた。

 幸い大公領は国境近くの辺鄙な場所にあった。険しい山々を越えた先には、隣国がある。そこへ亡命すれば、命は助かるはずだ。だからリチャード達は、山越えを決行した。

 夜の森を必死に進んだところで、追っ手がやってきてしまう。このままでは捕まると、そう思ったところで――。


「私が反対方向に逃げて、彼らを引きつけますから。……少ししたら、街の方に逃げてください」


 外套を着込んだ彼女が、リチャードの手を握って言った。

 山を越えるのは難しいから街へ逃げるようにと、何度も提案してきたのは彼女だった。

「しかし……」

「殿下もわかったでしょう。ほぼ一日以上歩いたって、私たちじゃ山の麓にすら近付けていない。森を彷徨って終わっただけ。これじゃ、あの雪山はどうやったて越えられないの。街へ逃げて。きっとうまくいけば、ショコラーテ夫人が助けてくれるはずです」

 どういうことだと尋ねる前に、彼女は笑ってリチャードの手を離した。

「いいですか殿下。私は死にたくありません。だから殿下も死なないで」

 ドレスの裾を握りしめたかと思えば、一気に太ももが顕になる位置まで引き裂き括った。

「私は一人でも大丈夫。これまでもずっと一人で生きてきたんです。世間知らずの貴族のお坊ちゃんより、よっぽど生き方を知っている。……だから、さようなら。リチャード」

 持っていた灯りを手に、彼女は猛然と走り出した。

 ドレスを破いたのは走るためだったのかとわかったのは、彼女がさってからようやくだ。。


 リチャードは王国が押し付ける女性らしさというものが、あまり好きではなかった。

 型にはめた女性像がなんとも気味悪くて。自由に生きる女性が魅力的に見えた。

 けれども結局、リチャードは王国で育った古い価値観を持つ人間にしか過ぎなかったのだ。

 彼女のことを、守ってやらねばならない存在だと見下して。

 結局最後は、犠牲にしてしまった。

 すべてリチャードの判断ミスだ。彼女のいう通り、世間知らずの温室育ち。何もわかっていたかったのだ。


 街へと行くと、待っていたかのタイミングでショコラが馬車で通りかかった。

 荷物を運ぶための馬車なのだと言い、リチャード達を乗せてくれた。馬車の座席は外れるようになっていて、いざという時はここに隠れるようにとも。そこはどう頑張って詰めても四人しか入れない。彼女を連れて行けないから、山を越えようと全員で決めたのに。


 本当はあの山の中で、誰にも見つからずに、死んでしまってもよかったのに。







 ***







 物思いに耽っていると、目の前で幕が上がり舞台が始まった。

 本国で流行っている劇で、確か意地悪な継母と義姉が健気な妹をいじめて、最後には報復される話だっただろうか。

 正直なぜそこまで流行っているのか理解できないが、確か隣国で似たようなことが貴族の間であったらしい。

 妹のモデルとなった娘は高位貴族に嫁いで幸せに暮らしたとか。

 実話をもとにしたから人気があるのだろうかと舞台を見ていると、意地悪な義姉が登場したところで、リチャードは叫びそうになった。

 派手な化粧とドレス、妙に色気のある流し目で、挑発的に観客を見渡す姿。

 堂々としてと見せかけて、己の腕を掴む手には妙に力が入っているのがわかった。


 ――緊張しているのか。


 初めて会った時もそうだった。

 男爵の開いた仮面舞踏会で、女主人として堂々と振る舞っているくせに。

 不意にその手が、指先が。震えているのを見てしまった。


 だから、だろうか。


 リチャードは声をかけずには、いられなかったのだ。


 あの時誘ったダンスは、断られてしまったけれど。


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