私の可愛い、可哀想な夫
ショコラの父エリオットは、常にリスクを考えて商売を行なっていた。
だから王国での爵位をなくしても、何ら困ることはなかった。何せエリオット・ブノワ以外にも幾つも名前があり、隣国の科学アカデミーへ出資したり、さらに別の国でも商売をしたりして、様々な顔と伝手を持っているのだ。
そんな父に連れられてショコラ達は家族一同で海を渡り、とある国の植民地で暮らす事となった。弟のブランが口説き落とし結婚した、王宮の食堂で下働きをしていたミルフィも一緒だ。
膨よかで大らかな性格のミルフィは料理上手で、食べる事も大好きな、まさにブランにうってつけの妻である。船旅も楽しんでいたし、着いた先で弟と一緒に食堂を開いて精力的に過ごしていた。ショコラにも好意的に接してくれる、とても良い可愛らしい義妹である。
「そろそろ良い時期だから、迎えに行こうかしらね」
「あらそれなら、お部屋を用意しなくちゃね」
ショコラの呟きに母ルリージュが楽しげに手を叩いた。よく分かっていないミルフィに、ブランがショコラの夫を迎えに行くのだと説明している。
「それなら、歓迎のお料理を頑張って作りますね!」
「あら、ありがとう。あの人、煮込み料理が好きなのだけれど、大怪我をしたそうだから味の好みが変わっているかもしれないの。だから、色々な料理を少しずつ出してもらえると、嬉しいわ」
「任せてください、義姉さま!!」
「ミルフィの作る料理を残すなんて勿体無いから、残ったら全部僕が食べるよ」
「あらまあ、ブランたら相変わらずの食いしん坊ねぇ」
和やかな会話の後で、ショコラは旅の準備を整え、再び海を渡った。旅券にはショコラーテ・ブノワではない名前が記載されているが、それは些細なことだ。
馬車を乗り継いでシュゼット家の町屋敷へと向かえば、ショコラの記憶にあるものよりもだいぶ見窄らしくなっていた。来る途中で聞いたシュゼット家没落の話に、思わず笑いが漏れてしまう。
何せ、第二妃ヘルディナの後ろ盾がある娘を蔑ろにした結果、一年も経たずに離婚となったそうだ。
夫は癇癪持ちで暴力や暴言が絶えない日々だったとか。両親が諌めてもおさまる事なく、第二妃ヘルディナが叱責しても変わらなかったそうだ。
そのためシュゼット家は社交界で恥を晒したという。もちろん、二人の結婚を後押しした第二妃も同様で、皇太子レオナールから暫くの謹慎を言い渡されたらしい。
ちなみにその妻であった娘は、幼馴染である男と幸せな再婚をしたとか。皇太子レオナールの覚えが良い高位貴族の息子だそうだ。
それを聞いたショコラは、なるようになったわねと肩を震わせた。
そしてひどい火傷を負った偏屈な夫は、シュゼット家を追い出されたという。僅かに貰った手切金で酒浸りの毎日を送っているとの事だった。
そんな夫は安宿にいると聞き、ショコラは鼻歌を口ずさみながら向かった。
かつての秀麗な姿とはかけ離れた姿のアランが、そこに居た。艶のない髪に、落ち窪んだ目、不健康そうな肌色に痩せ細った体。
そして右半身にある酷い火傷の痕。
アランはショコラに気付かず、酒を飲みながらも時折、火傷を負った右掌を覗き込んでいた。
ああなんて事と、その様子を見てショコラの全身は歓喜に震えた。何せアランが見ていたのは、かつてショコラが贈った、若草色の宝石をあしらったタイピンだったのだから。
いてもたってもいられなくなったショコラは、躊躇うことなくアランへと駆け寄った。そして己の胸に抱きこむと、愛おしげにその名を呼んだ。
「アラン様」
何が起きたのか分かっていないアランだったが、ショコラの顔を見て目を見開くと、獣のような唸り声を上げて縋り付いてきた。
ああなんて可愛いのかしらと、ショコラは頬を染める。
もはやアランの中には、ショコラへの執着に似た恋慕しかないのだ。それを確信して、そしてそうなるまで待っていた甲斐があるというものだ。
ショコラは愛される事に慣れている。だからこそアランを愛せるのだ。そしてそれゆえに、ただ愛されるだけでは満たされない。
欲しいものは全て与えてあげるから、どうか全て自分に捧げて欲しい。いいや、全て自分の物にしたいのだ。
泣き縋るアランを宥めて馬車に乗せると、ショコラは家に帰りましょうと促した。アランはショコラの手を握り、素直に従った。もう絶対に離さないと言わんばかりに握り締められて、ショコラは満足気に笑みを浮かべた。
「アラン様はネリーと結婚されたのでしょう。お話を聞く限り、誠意ある対応を取られなかったのはどうして?」
「…それは…」
ショコラ達が西の大陸で暮らしている事を話した後で、アランにネリーに対して酷い態度を取ったのかを尋ねた。アランらしからぬ、かなり苛烈に拒絶した話がちらほらと耳に入ったからだ。
アランは俯き、叱られた子供のように項垂れていたが、ショコラが優し気な笑みを浮かべているのを知ると、ようやく口を開いた。
「そ、そうしたらきっと、…家族からも見捨てられるかと…思って」
「あらまあ」
ショコラを魅了して離さない若草色の瞳が、綺麗に揺らめいている。
「お、お前は、…そういう可哀想な俺を、…愛してくれるのだろう…?」
その通りだと言わんばかりに、ショコラは破顔した。
兄のフェリクスならば、アランの現状を理解して隣国に連れて行ってくれたかもしれない。ネリーが嫌だとしても、もっとちゃんとした対応を取り、ヘルディナに理解を求めれば、穏便にシュゼット家から抜け出せたかもしれない。
ショコラが教え込んだ誠意ある対応を取れば、いつかはネリーと本当の夫婦になれたかもしれないし、第二妃となり不安定な立場となったヘルディナと深い仲になれたかもしれないのに。
けれどもアランは、そのどれの手も取らなかった。
それら全てを拒絶して、アランはショコラに縋ったのだ。それこそが正解で、ショコラに愛される唯一の方法だと思い込んでだ。
ああなんて、なんて可哀想で可愛い夫なの。貴方はまさに、私の運命の人。生涯をかけて、愛して差し上げますからね。
火傷を負った顔はとても愛おしく、ショコラはアランの右瞼に口付けを落とすと、その耳元で愛していると囁いた。
「まずは綺麗にしてお着替えをしましょうね。大丈夫、私が隅々まで丁寧に洗って差し上げるわ」
久しぶりにねと、かつて一緒に暮らしていた頃と同じようにとショコラが言えば、アランの頬が赤く染まったのが見えた。
馬車の外では新聞の号外が舞っている。
皇太子レオナールや彼を支持している高位貴族達が乗った蒸気船が事故を起こしたのだと、誰もが大騒ぎだ。その蒸気船を作る為に税は重くなり、幼い子供すら炭鉱労働に就く事を強いられていたのだ。皇太子レオナールが、蒸気船の事業が成功すれば、皆の暮らしが良くなるからという言葉を信じて、なんとかやっていたというのに。
残されたのは子供のいない皇太子妃と第二妃のみで、しかもその事故のあった日に王宮で豪華な夜会を開いていたと新聞に書かれており、群衆は口々に王家や貴族への不満を吐き出していた。
馬車の外の不穏な空気などショコラには関係なく、これからの楽しい夫婦生活に心躍らせて、上機嫌に鼻歌を口ずさんだのだった。




