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「お嬢様、そろそろ休憩なさいますか?」
メリーがアップルティーとクッキーを持って執務室の入口から声をかけてくれる。
頭がいっぱいで一瞬ぼんやりとしたが、ほのかなリンゴの香りに現実に引き戻される。
「そうね、そろそろキリが良いから休憩するわ」
「午前中の視察はいかがでしたか?」
メリーがアップルティーをカップに注ぎながら聞いてくる。
「視察って大層なものではないわよ…いつも通り挨拶してお喋りしただけだもの」
「馬の出産に立ち会ってこられたのは驚きましたけどね」
「それはタイミングが良かったのよ」
メリーが差し出したカップにはロイヤルブルーのバラが描かれている。領地に来てから書類と格闘している時にメリーが出すのはいつもこのカップだ。
カップに口をつけるとさっぱりした味わいが広がる。思わずふぅと漏れた息に自分が緊張していたことに気付いた。
「僭越ながら……根を詰めるのは良くないと思いますよ」
「そうね。でも座学と実技って全然違うのよ」
力を抜くために肩をゆっくり回す。
そぅ、あれからは怒涛の日々だった。忙しすぎて記憶がおぼろげなところもある。
結論から言えば、彼との婚約は解消された。
転んでもタダでは起きない父は色々手を回したようだ。娘に暴力を振るわれたことを前面に押し出し、婚約がなくなったにも関わらず綿花を優先的に売ってもらうことと新しい販路の紹介はちゃっかりそのままにしてある。その代わり慰謝料なしで婚約破棄ではなく解消に同意したようだ。
「お前がそんなにこの婚約を嫌がっていたとは知らなかった」
彼に叩かれ、てんやわんやした日の翌日。父は大変珍しく早く帰宅し、執務室に私を呼ぶと疲れた様子でこう言った。
「政略結婚することは分かっていました。呪いの件でこの婚約をダメにしても他に良い相手がいないだろうということも分かっていました」
私が婚約について何も主張しなかったから問題ないと父は思っていたらしい。私も家同士の政略結婚だから嫌だと主張できるなんて思ってもいなかった。浮気してみようかとか、婚約者と話し合いをしようとは考えて努力したつもりだけど。父と話し合うことは最初から諦めていた。
「キャンベル侯爵家に嫁に行くのがお前にとって最良の縁だったはずだった」
父は私から目をそらすと窓の外をぼんやり眺める。
「分かっております……こんなことになって申し訳ありません」
「いや。浮気は呪いの影響だと言い聞かせていたが…手が出るような男のところに娘をやろうとは思わない。解消に向けて動こう」
私と父の間には決定的に会話が足りなかった。でもこの日の短いやり取りの中で父の不器用な思いは理解できた。
そしてなぜ今、私が学園に通わずに領地にいるのかというと。
これはナディア様のおかげである。




