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ナディア様にずっと水の袋を持たせているわけにはいかないので、自分で持つとナディア様は今度は背をなでてくれた。
「ん? だって……はっ!! あれは!?」
彼の方に目を向けた殿下だったが、何を見たのか急に顔色を変えた。先ほどまでののんびりした様子はどこかへ行き、真剣な様子で目を細めた……と思ったら彼の方へ結構な勢いで飛びかかる。
「うわぁ!」
情けない声を上げながら彼は殿下をすんでのところで避けて尻もちをつく。私の背を撫でていたナディア様もさすがに驚き、ビクリと振動が伝わってきた。
私もその勢いに驚きはしたが、もしかして……と悲しいことに予想がついてしまった。
殿下の行動よりもむしろ彼が顔色悪く尻餅をついている様子が滑稽だった。彼のファン(まだいるなら)が見たならその情けない姿に百年の恋も冷めるだろう。
「え……」
微かに聞こえた困惑した声はナディア様のものだろうか。
殿下は彼を完全に無視して床に這いつくばると、次の瞬間には満面の笑みを浮かべて立ち上がった。両手で何かを包むようにしている。
「ポケットから袋を出してくれないか? 左側に入ってるんだけど」
零れんばかりの笑みを讃えたまま私の前まで来ると、以前を彷彿させるように殿下は言った。
静観していたゼイン様が額に手を当てて天を仰いだのが視界の端に映る。私の背中をなでていたナディア様の手は止まったままだ。
私は水入り袋を頬から外すと、殿下の着ている上着のポケットに手を入れて袋を取りだし広げた。殿下は満足げに頷きながら両手を袋に突っ込みソレを中に落とす。そして素早く手を出すと袋を私から取り上げて非常に慣れた手つきで袋の口をゆるく縛った。
ナディア様は声こそ出さないものの、袋の中身を見て……その表情は完全に引いていた。
袋の中には案の定、青い尾のトカゲが入っていた。目の前で嬉しそうに、同じ青い色の瞳がそのトカゲを見ている。この人は本当にどんな状況でもマイペースだ。
私も思わず微笑んだが、叩かれた頬が痛んで引きつった笑いになってしまった。
「一体……なにを……」
そんな状況の中、彼が尻もちをついたまま震えた声を出す。
殿下のお目当てはトカゲだったので彼には露ほどの興味もなかったと思うが、いきなり飛びかかるように向かって来られた彼はまだ驚愕の中にいるようだ。
「あ、君も見るかい? ほら、美しい青だろう? 幼体のときだけ尾が青くて成長するにつれて胴体と同じ色になっていくんだ」
なぜか殿下は彼がトカゲを見たがっていると思ったらしく、勢いよく振り向いて解説しながら彼の目の前にトカゲの入った袋を差し出した。
「あれは新手の嫌がらせなのかしら……」
ナディア様がぽつりと呟くが、おそらく殿下に悪気はないと思う。
「ひぃっ」
いきなり目の前に袋越しとはいえトカゲをぶら下げられた彼は反射で袋を叩き落とした。
「あぁっ! なんてことを!」
殿下の悲鳴のような声とともに、床に落とされた袋のわずかに口がゆるんだ隙間からトカゲが走り出てくる。
そしてトカゲはなぜか彼の体を結構な速度でよじ登り始めた。
「わぁっ! こっちへ来るな!」
「動かないでくれ!! 捕まえるから! 暴力を振るうな!」
必死に身を捩る彼と、それを抑え込もうとする殿下の攻防。
ゼイン様は助ける気はないらしく呆れたようにその様子を見守っている。
とうとうトカゲが彼の首まで到達したとき、やっと殿下がトカゲを捕まえた。
「やった!」
殿下はまた嬉しそうにトカゲを袋に突っ込む。その後ろで彼は伸びてしまっていた。
「あれって気絶してるわよね……やっぱり嫌がらせ??」
「ほら、今度はよく見て……って寝ているのか?」
後にも先にもこんなに引いている表情のナディア様を見るのはこれが最後だろう。
ゼイン様の長い長いため息が部屋に響いた。
トカゲはモデルがありますが、生息地などの細かい設定はフィクションということで目を瞑っていただければと思います。




