最終話 そしてもう一度
神戸港を出帆した船は、快晴の中を風の助けもあって順調に進み、大坂を経て京・伏見に到着した。伏見は水運の要とあって、船問屋や旅籠が数多く軒を連ねており、すぐそばを流れる宇治川には、人や荷を乗せた舟が無数に行き交っている。
勝と別れた草月と坂本がまず向かったのは、『寺田屋』という旅籠である。
女将のお登勢は、数年前に亭主を亡くして以来、ずっと一人で商売を切り盛りしており、薩摩藩上意討ちの一件があった際は、落ち着いて娘と帳場を守り、事が済んだのちは、すぐさま使用人に命じて血まみれの畳や襖を取り換え、数日のうちに営業を再開させたという剛毅な女性だ。
尊王攘夷派の志士たちの手助けをしていることでも有名らしく、かく言う坂本も、世話になっている一人だと嬉しそうに語った。
(なるほど、龍馬さんの定宿か。それで『寺田屋』っていう名前に聞き覚えがあったんだ)
ひとりごち、人ごみの中を、足の速い坂本に遅れないように小走りで着いて行く。
京橋と蓬莱橋という大きな二つの橋に挟まれるようにして建つ寺田屋は、草月が漠然と思い描いていたような普通の旅籠ではなく、多数の船頭を抱える船宿であった。宿は船待ちの客や荷物で隙間がないほどごった返しており、草月はうっかり荷物を落とさないようにしっかりと胸に抱え込んだ。
「おかあ! 帰ったぜよ」
坂本の大声に、帳場で番頭らしき男に指図していた女がぱっと振り返った。大柄な坂本の姿を認めるや、満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
歳は三十代半ばくらいだろうか。小柄だが、身のこなしが素早く、身体中から気力がみなぎっているのが見えるようだ。
「まあ、坂本はんやないの。えろうお見限りどしたなあ。相変わらず汚い格好して、今度は何やらかしはるおつもりや」
「久しぶりじゃというのに、容赦ないのう。……実は連れを京の長州藩邸まで送り届けたいんじゃ」
坂本に押し出されるようにして前に出た草月は、笠を取って、初めましてと頭を下げる。
「訳ありみたいどすな」
お登勢は勘が良いのかすぐに察して、
「こないなとこではゆっくり話もできひんし、まあ上がっとくれやす」
番頭に差配を任せて、二人を奥へと案内する。部屋に腰を落ち着けるや、市中の様子はどうだと坂本が尋ねる。
身を乗り出すようなその姿に、せっかちやなあと笑いながらも、お登勢は事情通らしく詳しく語ってくれた。
「残念どすけど、先の八月以来、尊攘派のお立場は悪うなる一方や。天子様の長州へのお怒りは未だに解けてはらんし、今は会津が市中の警護を仰せつかって、毎日隊伍を組んで見回りをしてるみたいどす。特に新選組とか言う集団は、腕の立つ者揃いで、ちょうっとでも怪しい人がおったら、浪人でも町人でもすぐに引っ立てられるて、もっぱらの噂や」
「新選組……」
(テレビで見たことがある。確か、青いだんだらの羽織を着て、いっぱい人を斬ったっていう……。そうか、長州にとっては敵方になるんだ。――でも、)
「私が去年の夏に京にいた頃には、新選組なんて名前、聞いたことなかったんですけど……。最近できた組織なんですか?」
お登勢はちゃうちゃう、と手を振った。
「『新選組』言う名前は、あの八月の政変の後に賜った名前らしいえ。それまでは、『壬生浪士組』て言うてたらしいわ。乱暴ばっかりするさかい、京の人は『壬生狼』て呼んで嫌っとるみたいやけど」
お登勢はその後も細々と京の情勢を伝えて、最後に、
「二人とも、京に行かはるんやったら、ほんまに十分気いつけた方がよろしゅおすえ」
と締めくくった。
お登勢の忠告に従い、草月と坂本は、いきなり長州藩邸を訪ねるのは避け、とりあえず市中の様子を見ようということになった。
草月はともかく、脱藩の身である坂本は、万が一、土佐藩士に見つかれば、問答無用で斬られても文句は言えない。五条大橋にほど近い茶屋の店先に並んで腰を下ろし、目深に被った笠の隙間から、ゆっくりと通りを見渡す。
八ヶ月ぶりの京の町は、一見とても穏やかで、物々しかったあの八月の出来事などなかったかのようだ。けれど、華やかに活動していた長州藩士の姿がどこにもなく、代わりに薩摩や会津らしき武士が幅をきかせているところが、やはり以前とは違っている。
――と。
通りの向こうから、ピーッという呼び子の音がして、草月ははっとそちらに顔を向けた。と同時に、背の高い武士がすぐ目の前をものすごい勢いで駆けて行った。その後を、数人の捕り方らしき武士たちが追って行く。
はっきりと見たわけではない。
直感だった。
「――桂さん!」
「なんじゃと!?」
考えるより先に体が動いていた。
「あっ、おい未咲さん! 待ちやあ! ……ええい、くそっ! 女将! 勘定はここに置いていくきに!」
飛び出した草月を追って、坂本も急ぎ駆けてくる。
「未咲さん、まっこと間違いないか?」
「間違いありません、あれは桂さんです!」
「いきなり大当たりか! なんちゅう僥倖じゃ。それでどうするつもりじゃ、何か策はあるんか?」
「いいえ! でも、追われてました。助けなきゃ!」
だが、人込みの中にすでに桂の姿は見当たらず、通りの両端には細い路地が無数にのびている。
「くそ、どっちに行った!」
「桂さんなら、きっと、藩邸へ向かおうとするはずです」
「よし!」
二人は迷わず右手の路地ヘ飛び込んだ。細い裏通りは、大通りの喧噪が嘘のように静まり返っている。
「――こっちじゃ!」
かすかな物音を頼りに、迷路のような路地を突き進む。いくつめかの角を曲がった時、二人の目に飛び込んで来たのは、三人の幕吏に囲まれている桂の姿だった。
お互い刀の柄に手を掛け、一触即発の状況だ。
「桂さん!」
刹那、草月と桂の視線が路上で交錯する。
思わぬ第三者の登場に、幕吏がぎょっとして振り向いた時には、草月は懐から取り出した短筒を構えている。
「――伏せて!」
桂が体を屈めたのとほぼ同時、草月の短筒が火を噴いた。
弾丸は狙った幕吏の脇を大きく逸れて、後ろの板壁にぶち当たった。だが、幕吏の気を逸らすには十分だった。
間を空けず、突進してきた坂本が幕吏に体当たりをかける。幕吏の足並みが乱れたその隙を見逃さず、桂は素早く囲みを抜け出した。
「君は……」
「早く!」
言いかける桂を制し、草月は桂の腕を掴んで走り出す。
「妙な形の対面になったが、土佐脱藩浪士、坂本龍馬じゃ。以後よろしゅう」
並んで走りながら、坂本がどこか楽しげに、場違いな自己紹介をした。
*
幕吏に追い付かれることもなく、三人は無事に長州藩邸にたどり着いた。人気のないがらんとした邸内が、今の長州の実状を如実に表している。
坂本を別室に待たせ、草月は桂と二人きりで向かい合っていた。
「草月、今まで一体どこにいた? 私や皆が、どれだけ心配したと思ってるんだ」
静かな声に込められた怒りに、草月は改めて自分の身勝手さを思って、身がすくんだ。でも、全て覚悟の上で戻って来たのだ。
「本当に、申し訳ありませんでした」
潔く頭を下げると、これまでのことを洗いざらい話した。
「そうか、勝殿の海軍塾に」
話を聞き終えると、やおら桂は頭を下げた。
「――すまなかった」
「……え?」
「本来、謝るのは私の方だ。保護すると言っておきながら、政治のことばかりに気をとられて、君のことを考えなかった。君を放り出したようなものだ」
「そんな、桂さんが政治に専心するのなんか、当たり前です。私が悪いんです。変えようと努力もしないくせに、変わらないことに腹を立てて、勝手にいじけて。挙げ句の果てに、何も言わずに出ていって……」
「いや、弥二と市から会津藩士とのことを聞かされた時に、君の気持ちを察してしかるべきだった。二人とも、君を心配していたよ。ずいぶん京に残って、探していたんだが」
帰国命令に逆らえず、すでに京を去った後だった。
「もし君に会ったら謝っていたと伝えてくれと頼むから、そんなものは直接本人に会って言えと言ってやった。……だが草月、なぜ戻って来た。君が無事と分かって嬉しいが、今の長州の状況を分かっていないわけではないだろう。あの政変以来、長州は政治の表舞台から引きずり落とされた。もう君を保護できるような状態じゃない。悔しいが、海軍塾にいたほうが、君の身は安全だ」
「保護してほしいんじゃありません。手伝いたいんです」
草月はきっぱりと首を振った。
「散々お世話になっておいて、逃げ出して、ホント最低です。今度こそ、長州の役に立ちたいんです。私に出来ることなら、何でもやります。お願いします!」
――いつの間に、こんな表情をするようになったのだろう。
桂は初めて見る者のようにまじまじと草月を見つめた。以前は歳の割に子供っぽく、どこかやわやわとした印象がある女性だった。しかし、今目の前にいる草月は、瞳に決然とした気迫を宿し、一歩も引かぬ決意でこちらを見据えている。
「……全く、君にはいつも驚かされるな」
根負けしたように、桂はすっと肩の力を抜いた。
「実を言えば、人手は喉から手が出るほど欲しいところだ。市中で自由に動ける者がいなくてな」
草月はこっくりと頷いた。顔を知られていない自分なら、怪しまれずに動くことが出来る。
「危険な仕事だ。君に何かあっても、いつでも助けに行けるとは限らない」
「覚悟してます」
「よし。なら君を長州へ迎え入れよう。客人としてではなく、正式な長州の人間として」
「ありがとうございます!」
「容赦はしないぞ。存分に働いてもらう」
「はい。何でも使ってください」
桂は立って別室の坂本を招き入れると、改めて礼を言った。坂本はこだわりなく笑って受け流し、良かったのう、と草月の頭を撫でた。
「うん、いい笑顔じゃ。ほいたら、わしはこれで失礼するぜよ。お互い生きちょったら、また会うこともあるじゃろう。元気でな」
去って行く坂本の姿を見ているうち、草月はこの数ヶ月のことを思い出して胸がいっぱいになった。この人に、自分はどれだけ助けられたか。
「――龍馬さん!」
たまらずその大きな背に向かい、思いの限り叫んだ。
「今まで、ありがとうございました! 私、頑張りますから……、今度こそ、絶対逃げずに頑張りますから!」
「おう! おまんならやれる! きっとまた会おう!」
「はい、必ず! 龍馬さんもお元気で!」
草月は肩が壊れるくらいに手を振った。坂本が路地の暗がりに消えるのを見送って、桂がそっと草月を促した。
「さあ、それではさっそく働いてもらうぞ。まずは、藩邸に残っている者達に紹介だ」
「はい」
「……不思議なものだな」
先に立って廊下を歩きながら、桂がぽつりと言った。
「え?」
「君が藩邸を出ていったと知った時、心配する気持ちの一方で、これで君は血生臭い政治と離れて、平穏に暮らせるとも思った。だが、今ここにいる君を見て、妙にほっとしている自分がいる」
「……」
「――ああ、そういえば、まだ言っていなかったな」
振り返った桂は穏やかな笑みを浮かべて草月を見た。
「――おかえり、草月」
その言葉に、止める間もなく涙が零れた。
故郷に戻ることを諦めたわけではない。
郷愁は今も胸の中にある。
それでも。
今は。
ずっと世話になってきた大切な人たちのために、ここで、自分に出来ることをやりたい。
素早く涙を拭って、泣き笑いの顔で大きく息を吸い込むと、ゆっくりと、心からの気持ちを込めて頭を下げた。
「……ただいま、帰りました――!」




