第44話 神戸海軍塾
文久三年は、長州藩が進めていた攘夷討幕、それに危機感を抱いた会津・薩摩両藩による長州追放、雄藩諸侯の合議で政治を行う参与会議の開催――と、目まぐるしく政局の変わる年であった。
明けて元治元年、意見の不一致から、参与会議は早々に崩壊。代わって、一橋慶喜や、京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬らが政治の中心となる。
京の政局が落ち着かぬ一方で、諸外国は、先年五月に長州が行った攘夷に対する合同の報復攻撃を行うことを決定した。
その攻撃猶予を求める交渉のため長崎を訪れていた軍艦奉行並・勝麟太郎とその弟子・坂本龍馬は、桜も終わりの四月、二ヶ月にわたる旅を終えて神戸村にある海軍操練所の船着き場に降り立った。
広大な敷地を有するこの操練所は、勝の建言により造られた幕府の直轄機関で、幕臣や旗本の海軍教育を目的としている。しかし先の二月に完成したばかりでまだ準備が整っておらず、本格的な操業開始は来月になる予定だ。
そして、ここより北へ約六丁。一面、綿と麦の畑が広がるのどかな田舎道を進んだ生田の森のそばに、神戸海軍塾がある。身分・出身を問わず、海軍を志す若者達を集めた勝の私塾だ。元々は大坂にあったのだが、立地の悪さから、操練所が出来るまでの繋ぎの意味も込めて、より立地の良いこの地へと移されたのだ。
勝と坂本が入っていくと、二十代ほどの若い塾生たちが、ちょうど広場で実寸大の帆柱模型を使って帆を畳む訓練をしているところだった。
「よう皆、調子はどうだい」
「勝先生! 龍馬も! お久しぶりです。首尾はどうでした?」
二人の姿を見て、わっと塾生らが集まってくる。
「なかなか盛況じゃねえか」
満足げに見渡した勝は、塾生の輪に加わらず、一人よたよたと危なっかしげに、取り外した帆を運ぶ小柄な人物に目を止めた。
「おいおい、龍馬。俺の目が耄碌しちまったんじゃなけりゃ、ありゃ、おなごじゃねぇのかい」
「ははは、ばれましたか」
坂本は悪びれた様子もなく、むしろ面白がるような口ぶりで言った。
「ほら、前に大坂で行き倒れちゅうのを拾ったおなごですよ。何か手伝いたいちゅうんで、塾内の雑用をやってもろうちょったんですけんど、いつの間にやら男らに混じって船の勉強をやるようになりましてのう。英語も飲み込みが早うて、わしなどよりよっぽど良う出来ますき」
「ふうん、そりゃ頼もしいや。なら、あの子も呼んできな。休憩がてら、長崎の報告といくねえ」
「分かりました。おーい、未咲さん! ちっくと休憩するぜよ! 長崎の美味い菓子もあるきに」
未咲と呼ばれた女は、思案するようにぱしぱしと瞬きしたあと、こっくりと頷いた。
*
勝が宿舎へと帰って行った後。
未咲は一人、塾を抜け出すと海へと足を向けた。日暮れ間近の海岸は、朝の漁師たちの賑わいが嘘のように寂しく静まり返っている。聞こえるのはただ寄せては返す波の音だけ。
手近な岩に腰掛け、手にした布包みをそっと開く。中から現れた不気味に黒く光る硬質な物体が、夕日を受けて赤く染まっている。
「そりゃあ、あの時のもんじゃな」
背後から突然聞こえた坂本の声にも、未咲は驚くことなくゆっくりと振り向いた。何となく、彼が来るような気がしていたからかもしれない。
坂本はいつも、未咲が沈んでいると、すぐにそれを察してやって来た。たいてい、甘いお菓子だったり、珍しい舶来品だったりを懐に忍ばせて。
ある時などは、小さな子犬を連れてきて、たいそう未咲を驚かせた。
「どうしたんですか、その子――」
「えいき、えいき」
坂本から半ば押し付けられるように渡された暖かな生き物は、すんなり未咲の腕の中におさまり、濡れた鼻先をくりくりと押し付けてきた。赤茶色の柔らかな和毛をそっと撫でると、お返しというようにぺろりと頬を舐められる。
「お――」
その時の未咲の顔を見て、坂本は一寸、驚いたように目を剥いて、次いで嬉しそうに破顔した。
「どうしたんですか?」
「おまんが笑うたとこ、初めて見た」
「……え?」
未咲は、まるで自分が幽霊だと言われたように頬に手を当てた。久しく動かしていない頬の筋肉が、引きつったように強張っている。
「そうやって笑いゆうほうがずっとええ。おなごは笑顔が一番じゃき」
坂本は豪快に笑って、ばしばしと未咲の背を叩いた。
だが、今日の坂本は何をするでもなく、ただ黙ってどっかと隣に腰を下ろした。
「これ、前にお世話になってた人が、護身用にってくれたんです」
未咲は大事そうに、手の中の物――短筒の冷たい銃身をそっと撫でた。
「龍馬さんに会う前、私、京にいたんです。――京の、長州藩邸に。……驚かないんですね」
「ほりゃあ、な」
坂本は、首すじをぼりぼりとかいた。
「長州の話が出るたんびに、全身で聞き耳を立てちょったら、ほりゃあ、分かるぜよ。さっきじゃち、長州への攻撃が延期されたち聞いたら、あからさまにほっとしよったじゃろう」
「そんなに露骨でした? 私」
「鈍いわしが気付くくらいじゃからのう」
未咲はふふふ、と自嘲気味に笑った。
「私ね、『未咲』っていう本名の他に、もう一つ、名前があるんです。私にとっての恩人みたいな人が付けてくれて、ずっとその名前で呼ばれてて、いつしかそう呼ばれるのが当たり前みたいになってました」
――『草月』、と。
まるでその名前が呼び水となったように、これまでの記憶が鮮やかに蘇った。
突然、現代から江戸の町に迷いこんだこと。たつみ屋の女将に拾われたこと。長州藩邸での日々。
そして、あの八月の出来事。
あの日、藩邸を飛び出した草月――未咲――は、あてもなくさ迷い歩いていた。
何日経ったのか、自分がどこにいるのかすら分からない。考えることを放棄して、ひたすら歩き続けるうち、いつしか大坂の町へと至っていた。偶然見つけた寂れた寺の境内に入り込み、空腹と疲労で、もはや歩く気力もなくその場にへたり込んだ。
(私、このまま死ぬのかな……。野垂れ死になんて、現代じゃ到底考えられない死に方だな……。もう、どうでもいい)
横になり、目を閉じた。
どれくらい経ったのだろうか。
ふと目を覚ました時、目の前に、荒んだ雰囲気をまとった数人の男が立って、冷たい匕首の刃で未咲の頬をぺちぺちと叩いていた。
「何や、生きとんのか」
「汚れとるけど、そこそこの値では売れそうやな」
口々に言って、中の一人が顔に手を延ばしてきた。
(――いや)
自分のどこに、こんな力が残っていたのか分からない。
だが、気が付くと、未咲は男の手を払いのけ、全力で走り出していた。
「待てえ!」
土地勘のない場所に、女の足で敵うはずもない。たちまち追い付かれ、人気のない路地に追い詰められる。
「姉ちゃん、逃げても無駄やで。さっさと観念して……」
言いかけた男は、途中でうっ、と言葉を飲み込んだ。未咲の手の中にある短筒を見て取ったのだ。
「おいおい、冗談やろ」
「何やってお前みたいなんが、そんなもん……」
未咲にはもはや男の言葉など耳に入っていなかった。
ただ、息を詰め、引き金を引いた。
ダァーー……ン!
銃声が市中に音がこだまし、バサバサと音を立てて一斉に鳥が飛び立った。
静けさが戻ってきた時、男は呆然と己の腕から流れる血を見つめていた。そして、次の瞬間、男たちは引き攣った悲鳴を上げて、我先にと逃げ出した。
そこに入れ違いのように現れたのが坂本だ。
勝に従い大坂に来ていた坂本は、銃声を聞いて、真っ先に駆け付けたのだ。
「おーい、生きちゅうか? しっかりするぜよ」
坂本は半ば放心状態の未咲を見つけると、何も聞かず、勝の主催する海軍塾に連れ帰った。勝もまた、
「何があったか知らねえが、女が短筒持って、身一つで旅してるなんざ、よっぽどの訳があるんだろうよ。行くところがねえなら、ここにいればいいさ」
快く未咲を受け入れてくれた。
初めのうち、未咲は、自分の殻に閉じこもって、誰とも打ち解けようとしなかった。自分を助けてくれたのが、あの坂本龍馬だと知って、その巡り会わせを恨みさえした。しかし、海軍塾の自由でおおらかな空気は、いつしか自然と、固く閉じられていた未咲の心をほぐしていた。
「……私、京で辛いことがあって、逃げたんです。家に帰りたいって。でも、行く宛なんかなくて、そのうち、何もかもどうでもよくなって。でも、殺されると思った時、嫌だって思った。死にたくないって。……どうしてでしょうね」
「ほりゃあ、生きたいと願うんは、誰でも、当たり前のことじゃろう」
坂本は、あっさりと言った。
「潔う死ぬんも一つの生き方じゃけんど、みっとものうても、最期まであがいてあがいて生きぬくんが人間じゃとわしは思う。どんなに気をつけちょっても、不慮の事故で死ぬこともある。それなら、生きているうちは、出来ることを全力でやるべきじゃ」
坂本は一旦言葉を切り、真っ直ぐに未咲を見つめた。
「……おまん、京に、戻りたいんじゃないかえ?」
「……」
未咲は唇を噛んで俯いた。
「わしは明日、勝先生について京へ向かう。おまんが戻りたいと言うんなら、一緒に来ればええ」
「京へ……」
一瞬、気持ちが揺れた。
だが、すぐにかぶりを振った。
「いいえ、……行けません。船の勉強だってまだ途中だし、龍馬さんにも何も恩返しできてないし……」
「わしのことなどどうでもええ!」
坂本は突如、激しい口調で未咲の言葉を遮った。未咲が初めて見る、怒った顔だった。
「船の勉強やち、したいなら、どこでもできる。けんど、おまんがほんまにやりたいことはそれではないろう! 何をごちゃごちゃ言うちゅう。この機を逃したら、もう会えんかもしれんのじゃぞ」
「でも、怖いんです!」
叫ぶ未咲の瞳は涙で濡れていた。
「会って何を言えばいいのか。何しに来たんだって、怒鳴られるのが怖いんです」
「それなら、怒鳴られてこい! そいつの顔を、目に焼き付けてくるんじゃ。ここにいたいっちゅうんなら、それでもええ。けんど、まっことそれがおまんの本心か? 二度と会えんでそれでええんか。そいつらに、会いとうないんか!?」
「……会いたい。会いたいです」
大粒の涙と共に、未咲は、とうとう本音を吐き出した。
藩邸を飛び出したことを、どれだけ後悔したか。
長州の皆のことが心配で、気になって、気になって、眠れなくて。
本当は戻りたかった。
謝って、今度こそ、彼らのために、力になりたかった。
「なら決まりじゃ」
泣きじゃくる未咲の頭を、坂本は幼子にするように優しく撫でた。
「そしたら、早う、仕度をせんとのう。さあ、これから忙しくなるぜよ」
*
未咲が京へ行くことを告げると、塾生らは別れを惜しみつつも、喜んでくれた。
そして旅立ちの朝。
未咲は行李の一番奥から、一揃いの着物を引っ張り出した。食べるため他の何を売り払っても、これだけは手放せなかった。懐かしいそれに袖を通し、最後に腰の位置できゅっと強く紐を結ぶ。
「龍馬さん、準備できました」
「おまん、その恰好……」
部屋から出て来た姿を見て、坂本はあんぐりと口を開けた。
結っていた髷を解いて後ろで無造作に一つに束ね、色褪せてはいるが、質の良い濃紺の袷に落ち着いた銀鼠色の袴を穿いた男装姿。
「これが、草月です」
草月は、真っ直ぐに龍馬を見つめ、鮮やかに微笑んでみせた。




