第42話 文久3年8月18日
八月も半ばに入り、朝晩はずいぶんと過ごしやすい気候になった。早いもので、草月が京に来てから五ヶ月が経とうとしている。
その間、長州藩は攘夷実行に倒幕推進と、その勢いは止まることがない。確実に、歴史は明治維新に向かって動いている。
それに引き換え、草月の屏風探しは遅々として進んでいなかった。
――京に着けばなんとかなる。
きっと帰れる。
江戸にいた頃は根拠もなくただ無邪気にそう信じていられた。しかし、実際に京に来て、数ヵ月が過ぎて。状況は何も変わらない。手がかりも何もない。
――もう、二度と、帰れないかもしれない。
ずっと考えないようにしていた現実が、形になって迫ってくる。日に日に焦りばかりが大きくなって、草月の心を押し潰した。誰かと話して気を紛らせたくても、高杉は長州、伊藤は遥か海の上。攘夷に邁進する久坂や山田、品川らとは話しづらくて、いつしか草月は一人で塞ぎ込んでいることが多くなった。
そんな草月をよそに、勢いづいた長州は怒濤のうねりとなって攘夷倒幕へと突き進み――、そしてそれは突如、水量を増した川のように決壊したのである。
*
八月十八日、虎の刻(午前四時頃)。
京の人々の安らかな眠りを切り裂いて、地響きと共に大砲の音が鳴り響いた。
「何事じゃ」
「御所の方から聞こえたぞ」
堺町御門の警備を任されている長州の兵達は、直ちに御所へ急行した。だが、彼らを待っていたのは御所の前に立ちはだかる薩摩と会津の兵であった。入れろ入れぬの押し問答で、両者は激しく睨み合い、殺気立って今にも武力衝突が起きそうな危うさである。そんな長州兵の元へ、長州の御門警備を免じる勅命がもたらされたのはすっかり夜が明けてのことだった。
まさに青天の霹靂で、一体なぜ突然そんなことになったのか分からない。家老・益田右衛門は、いつ戦になっても良いように邸内にいる数百人の藩士らを武装させ、また、この事態の理由を問いただすべく、長州派公卿である関白鷹司卿の邸へと赴いた。
(まさか、本当に戦になるんじゃ……)
邸内の物々しい雰囲気に、不安にかられた草月は、
「ちょっと出てきます!」
内藤に事情を聞こうと藩邸を飛び出した。
(確か、会津藩は黒谷の光明寺っていうところに陣を置いてたはず)
見上げる空はどんよりとした厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。通りは、槍や銃で武装した兵が行き交い、市中の人々は気味悪そうに閉じた戸の隙間からそれを見ている。
「草月殿!?」
すぐ脇を走って行った数人の会津兵の一人が、驚いた顔で足を止めた。
「内藤はん!」
探していた内藤だ。
飛び出して来たはいいものの、どう内藤に取り次いでもらえばいいか悩んでいた草月は、ほっとして駆け寄った。
内藤は一緒にいた仲間に先に行くよう促し、草月のもとへやって来ると、いつになく厳しい顔で言った。
「なぜこんなところにいる? ここは危ない。早く吉田屋に戻られよ」
「内藤はんを探しとったんどす。これは、一体どうなってはるんどすか? 何で長州の兵が御所に入れんのどす」
「それは……」
「――草月!」
内藤の言葉を遮り、見知った二人が駆けてくる。
「山田くん! 品川さん!」
「――下がれ!」
品川は内藤から草月をかばうように間に入った。
「こいつは会津者じゃぞ! おい、お前、草月に近づくな!」
「違うんです、品川さん。この人は知り合いの内藤さんです! 探してたら、たまたまここで行き合って……」
「何じゃと!?」
驚いた品川の表情が徐々に冷たいものに変わる。
「……まさか」
絞り出すような低い声で品川が言った。
「草月、お前、会津と通じてたのか。こうなることを知ってて黙ってたのか!」
「まさか、そんな、違います! 私は何も聞いてません。何が起こったのか、それを教えてもらいたくてここに――」
「黙れ!」
「やめろ、弥二!」
刀を抜いた品川を山田は後ろから羽交い締めにした。
「離せ! こいつは前からそいつと懇意にしてたんじゃぞ! 会津と通じて、長州の情報を教えていたに決まってる!」
「そんなことしてません! 山田くん、山田くんだって知ってるでしょ!?」
「俺は……」
悲痛な草月の叫びに、しかし山田は咄嗟に言葉を返せなかった。
みるみるうちに、草月の顔が痛みを堪えるかのように歪められる。
「ご両人とも落ち着かれよ」
内藤の静かな声が割って入った。
「草月殿は貴殿らを裏切ってなどおらぬ。拙者と会ったのはまこと偶然だ」
「っは! 薩摩と謀って長州を閉め出しておいて、そんな言葉を信じられると思うのか」
頭に血が上った品川には、誰の言葉も届かない。
「……あい分かった。そこまで申されるなら、致し方ない。――拙者の一命をもって草月殿の潔白の証しといたす!」
――刹那。
赤いものが、舞った。
「内藤さん!」
驚愕に目を見開く草月の目の前で、内藤がくずおれるように膝をついた。
止める間もなかった。
内藤は、脇差しでためらいなく己の首を裂いたのだ。
首からはどくどくと血が溢れ、取り縋る草月の着物を染めていく。
「内藤さん、……内藤さん!」
内藤は苦しい息のもと、必死に言葉を紡ぐ。
「草月殿の……、言っていることは、本当だ。草月殿は、何も、知らぬ。……何も、しゃべってはおらぬ。どうか……、信じてやってくれ」
品川は冷や水を浴びせられたように立ち竦んでいたが、
「分かった、俺が間違ってた。分かったから、しっかりしろ!」
手拭いを取り出し、傷口に押し当てる。
だが、溢れ出る血は止まらない。
内藤は焦点の定まらぬ瞳で草月を見て、
「すまねえなし……、迷惑を……、かけぢまっだ」
「いいえ、いいえ!」
草月は首を振るのが精一杯だった。
「医者を呼んでくる!」
山田が駆け出そうとした時。
通りの向こうから、内藤を心配してか、先程の会津兵たちが戻ってきた。こちらの様子を見てとるや、顔色を変えて走ってくる。
「まずい、行くぞ!」
座り込んだままの草月を引きずるようにして、山田達はその場を離れた。
(なんで、どうしてこんな……。もう嫌、こんなところ。家に帰りたい)
――家に、帰りたい……!
鳴咽の合間に、搾り出すように口にした切なる願いは、しかし、周囲の喧騒に紛れて、誰の耳にも届かなかった。
*
それからどこをどう走ったのか覚えていない。気が付けば草月は、藩邸の自分の部屋で、血まみれの体を抱えて震えていた。
邸内では、主だった者たちが集まって、今後の進退についての話し合いが行われていた。
どうやら今朝のことは、長州を朝廷から追い出すために、会津と薩摩が手を組んで謀ったことらしい。断固戦うべきとの声もあったが、朝廷に弓引くわけにいかないとの意見が多数を占め、ひとまずは京を引き払い、再起の機会を窺うことに決した。
そうして、桂、久坂、品川、山田を含む長州藩士らと攘夷派の七人の公卿は、わずかの人数を残して京を出た。折しも降り出した篠突く雨の中、その姿はまるで惨めな敗残兵のようだった。
彼らが去った後の藩邸内は不気味なほど静まり返り、しわぶきの音一つ聞こえない。
一両日部屋に籠りきりだった草月がふらりと姿を現し、ひっそりと門から出て行っても、それを気に留める者は誰一人としていなかった。
そして、その日を最後に、草月の消息は途絶えたのである。




