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花綴り  作者: つま先カラス
第三章 京
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第40話 攘夷、実行

 萌黄色の柔らかな木々の葉も次第に緑を濃くし、初夏の気配が強く感じられるようになってきた。

 先頃、将軍が五月十日を攘夷実行の期と上奏したことで、長州藩邸はさながら祭りの前のような興奮に包まれている。

 世子定広は長州防備の準備のために帰国し、久坂ら尊攘派の有志たちも続々とその後を追った。長州に帰った久坂は、さっそく長州下士や他藩の脱藩浪士ら六十名ほどを束ねて一隊を作った。その隊は、光明寺に陣を置いたことから、光明寺党と称されているらしい。

 そうした中、山田は未だ京にいる。山田としては、一刻も早く長州へ帰り、久坂たちと共に、馬関で準備中だという砲台の整備に加わりたかったのだが、なかなか帰国の許可が下りないのだ。

 逸る気持ちを抑え、童顔だといつもからかわれる顔を精一杯引き締めて、小柄な体躯を運んでいると、葉擦れの音に紛れて、話し声が聞こえてきた。思わず首を傾げたのは、一方がたどたどしい京ことばだったからだ。

「何しちょるんじゃ?」

 開け放した障子から覗いた部屋の中では、草月と伊藤が、何かの稽古のように向かい合って座っている。

「あら、山田はん。お勤めご苦労さんどす」

 山田に気付いた草月に、京ことばではんなりと頭を下げられ、山田はぎょっとして一歩下がった。

「何じゃ、気色悪い。何か変なものでも食べたのか」

「失礼ね! 言うに事欠いて気色悪いはないんじゃない?」

 たちまちいつもの草月に戻ったことに心から安堵しながら、悪かった、と素直に詫びる。

「……それで、さっきのは何の余興じゃ?」

「余興じゃなくて。伊藤さんに、京ことばの練習に付き合ってもらってたの」

「俺が草月に英語を教えてもらってるから、そのお返し」

 にへらと笑った伊藤は、先日、志道の再三の口説きにとうとう折れて、洋行を決意していた。

「ほらこれ、草月が書いてくれたんだ。すごいだろ?」

 得意気に伊藤が懐から取り出して見せたのは、手のひらに収まるほどの小冊子だ。中を開くと、頁一面、英文と訳文とが几帳面に記されている。簡単な日常会話に始まり、果ては軍艦の操縦方法、大砲の飛距離や構造を尋ねる質問まである。

「よくこんな単語知っちょるな。普通は専門家でないと知らんぞ」

「江戸にいた時、村田先生と洋書の翻訳してたから、自然と覚えちゃったみたい。といっても、実は綴りはうろ覚えなんだけど。海軍の勉強するなら、必要でしょ?」

「ちょっと待て、村田先生って、あの村田蔵六先生か!?」

「うん、知ってるの?」

「知っちょるもなにも――、兵学の権威じゃぞ!? そんな人と、よくもまあ……」

 のほほんとした草月に山田は盛大なため息をついた。

「まあええ。それで、草月のほうの成果はどうなんじゃ?」

「全然だめ」

 草月はたちまち肩を落とした。

「どうしても、話す前に一瞬考えちゃって、すらすらと言葉が出てこないの。気を抜くとすぐに素の話し方に戻っちゃうし。……伊藤さんは習った訳じゃないのに、京ことば良く知ってますよね。英語だって覚えるのが早いし。耳が良いのかな」

「俺は前に、長州の訛りを必死で直したからなあ。江戸じゃ、訛りが強いと田舎者だって馬鹿にされたから。桂さんは江戸暮らしが長いから、自然と抜けたみたいだけどね」

「桂さんの長州弁? うわ、長州弁の桂さんって、山田くんが堅苦しい武家言葉しゃべるのと同じくらい想像できない。……というより、山田くんがいきなり『某は(それがし)は……』とかしゃべりだしたら絶対おかしい、笑っちゃう!」

 言いながらすでに可笑しそうに笑っている。

 山田は憮然として、

「笑いすぎじゃ。俺がちゃんとしゃべったらそんなにおかしいか」

「だって似合わないもの。山田くんだって、さっき、私が京ことば使ったら、すごい変な顔してたじゃない」

「確かに驚いたのは認めるけど、俺は笑っちょらん」

「じゃあ、試しに想像してみてよ、桂さんがいきなりお公家言葉でしゃべり出すの。まろは桂でおじゃる~、とかさ」

 ぶはっ、と伊藤と山田が同時に吹き出した。

「あ、ほら、やっぱりおかしいでしょう」

「馬鹿、お前が変なこと言うからじゃろうが。不敬じゃぞ。いくらなんでも公家言葉なんて桂さんが言うわけないじゃろう」

「そうだけど、想像したらおかしいじゃない。……あ、伊藤さん、私がこんなこと言ってたって、絶対桂さんには言わないでくださいね」

「分かってるよ」

 伊藤は、笑いの合間に大きく頷いて受け合った。


                          *


「俺はあれ以来桂さんの顔をまともに見れんぞ!」

 幾松のところから帰った草月のもとに、山田が烈火のごとく怒りながら駆け込んできたのは、それから数日後のことだった。

「必死で笑いをこらえちょったら、腹でも痛いのかと言われた」

「ごめん、ごめん。まさかそんなツボにはまっちゃうとは思わなくて」

 くすくす笑って謝った草月は、悪戯っぽく目をきらめかせて、

「いっそ、正直に打ち明けちゃうってのはどう? もれなく桂さんの特製納豆がついてくるよ」

「なんじゃ、その特製納豆というのは?」

「ねちねちのお小言」

「いるか、そんなもん」

 即座に言い返した時にはすっかり草月の空気に乗せられている。

 まあ座ってよ、と勧められるままに部屋に上がり込む。隅で丸くなっていた小萩が起き上がり、音もなく山田の膝の上に乗って再び丸くなった。その背をゆっくりと撫でてやりながら、

「そういえば、聞いたか? 殿から、志道さん達の洋行のお許しが出たらしいぞ」

「うん、伊藤さんが言ってた。伊藤さんは武器調達の命を受けちゃったから、すぐにでも江戸へ発つんだって。志道さん達もすぐ後を追うみたいだから、あっという間だね」

 草月は、持っていた三味線を隅に置いてある台に立てかけると、山田を振り返った。

「でも、なんか不思議だよね、長州藩って。だって、一方では武力で攘夷を実行しようとしてるのに、もう一方では、留学生を派遣して、異国の知識を取り入れようとしてるんだもん」

「殿の御器量の広さの賜物じゃろう。これほど臣下の言葉に耳を傾けて、裁量を任せてくれる御方はそうはおらん。俺も早く長州に戻って、攘夷の実を挙げたい」

 うずうずする内情を吐露すると、草月は珍しく表情を翳らせ、そう、とだけ言った。手応えのなさに山田が不満を漏らすと、

「だって、私は武力による攘夷には反対だもん」

 草月は沈んだ声で続けた。

「異国は高い軍事力を持ってる。戦を仕掛けて、簡単に勝てるとは思わない。……それに、私、江戸にいた時、イギリスの人と友達になったの。礼儀正しくて、面白くて、すごくいい人だよ。もし、山田くん達の攻撃で、その人の国の人が怪我したり亡くなったりしたら、私どんな顔してその人に会えばいいの? 私がお世話になってる藩の人達が、あなたの国の人を傷付けました。でも私はやってないから、これからも仲良くしましょう、なんてそんなこと言えないよ」

「なんじゃ……、それ」

 山田はみるみる顔を赤くした。常の山田なら、草月の気持ちを思いやることもできただろうが、目前の攘夷に逸った山田には、裏切られたようにしか聞こえなかった。

「お前は夷狄の味方なのか!? 長州の世話になっちょきながら、よくそんなことが言えるのう!」

「どっちの味方とか、そういうんじゃないよ! どっちも大事なだけ――」

「もうええ!」

 山田は遮るように言って立ち上がった。

 膝から転がり落ちた小萩が抗議の鳴き声を上げたが、山田は振り返ることなく部屋を出ていった。

「……怒らせちゃった」

 草月は小萩を抱き上げると柔らかな温もりに頬を寄せた。

「中途半端だな、私」

 堂々と攘夷反対を叫ぶこともできずに、ただ感情論だけを山田にぶつけて傷付けて。偉そうに掲げた『草莽攘夷』も、京に来てからは全く行動に移せていない。

 心のどこかで、他人事だと思っている自分がいる。

 ――いつか、もといた時代に帰るから。

 私なんかが考えても、どうにもならないことだから。

 言い訳ばかりが増えていく。

 全てのことから目を背けるかのように、ぎゅっと目をつぶる。

「ホント、駄目だ……」

 呟いた声は、誰にも届くことなく儚く消えた。


                            *


 程なくして、伊藤が江戸に発つ日がやって来た。

 藩主の許可が下りたとはいえ、海外渡航はご法度だ。もし露見すれば命の保証はない。うまく船に乗れたとして、イギリスまで無事に着ける保障もなかった。

「――聞多が言うには、まずイギリス領事と交渉して、イギリスに渡る算段をつけるんだってさ。……大丈夫、そんな心配するなって。松陰先生は失敗したけど、今回はその時とは状況が違う。桂さんや麻田さんも協力してくれるし、軍資金だってある。たとえ幕吏に見つかっても、捕まるようなへまはしないよ。行くと決めたからには、船底に張り付いてでも、必ず行ってやる。俺や聞多が諦め悪いの、知ってるだろ?」

 見送りに出た草月に、伊藤はいつものようにおどけて言った。

「本当に、本当に、気を付けてくださいね」

 草月は懐から親指ほどの小さな巾着袋を取り出すと、伊藤に差し出した。

「これ、持って行ってください。貴船神社の奥宮にあった小石が入ってます。航海安全のご利益があるって聞いて、もらってきたんです」

「貴船!? あんな遠いところまで、わざわざ取りに行ってくれたの? ――ありがとう」

 伊藤は下げ緒を解くと、巾着に結び付けて首から提げた。

「これに比べたら、俺からの贈り物なんて平凡なものだけど」

 伊藤の手が伸びて、草月の髪にそっと触れる。離れた時には、薄桃色の玉簪が飾られていた。

「せっかくおなごの格好してるんだから、たまにはこういうのも付けないとね。うん、よく似合うよ」

「ありがとうございます、伊藤さん。簪だけじゃなくて、今までのこと、色々。一緒にいられて、すごく楽しかったです」

 言って、精一杯の笑顔を見せる。

「俺もだよ。草月がちゃんと家に帰れるよう、祈ってるから」

 にっ、といつもの笑みを残して、伊藤は旅立って行った。


                           *


 梅雨に入ったせいか、連日、さあさあと雨が降っている。

 ようやく帰国の許可が出た山田は、久坂率いる隊と共に砲台の台場造りに奔走していた。雨で作業は難航していたが、町民の協力もあり、前田村・壇ノ浦の沿岸や、外浜町堂崎の亀山、南部永福寺浦山などの高地に総数約三十門の砲台を設置することができた。

「浮かない顔だな、市」

 亀山から眼下の海を見下ろしながら、久坂は傍らの山田に話しかけた。

 海上には、海峡の警備に派遣された壬戌丸や癸亥丸、庚申丸といった大型藩艦が、準備万端、決行の時を待っている。

「草月と喧嘩でもしたのか」

「何であいつの名前が出てくるんですか」

「なぜって」

 久坂は年長者らしい余裕の笑みを見せた。

「彼女の話題を避けているようだからさ。最近は仲良くやっているようだったのに、こっちに来て以来、一度もお前の口から草月の名前が出ない。おかしいと思うのが普通だろう」

「……あいつ、攘夷には反対みたいなことを言ったんです」

 山田は憮然として言った。

 そんな顔をすると、もともとの童顔がますます幼く見えるのだが、当の本人はまるで気付いていない。

「ようやく、藩を挙げて攘夷を実行に移そうとしちょるこの時にですよ。異国の力は侮れんじゃとか、異国の友人がどうとか、士気を下げるようなことばかり」

「『草莽攘夷』が草月の持論だからな」

 なんですかそれは、と問うてくる山田に簡単に説明してやると、山田は思い切り口をへの字に曲げた。

「言いたいことは分かるよ。甘いと言うんだろう。正直、僕もそう思う。でも、なぜ草月はお前に、そんなことを話したと思う? 今の長州で、大っぴらにそんなことを言えば、異国と通じていると言われて斬られかねないことは、彼女も分かっているはずだ。草月は、お前を信頼して話したんだ。考え方は受け入れられなくても、その気持ちは汲んでやれ」

 山田は黙ったまま答えなかった。


                         *


 五月十日深夜。

 長州は、田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペングローブ号を発見。沿岸に設置した砲台から、癸亥丸から、そして、久坂ら光明寺党が乗り込んだ庚申丸から、散々に大砲を打ちかけた。ペングローブ号は咄嗟のことに碌な対応もできず、霧雨に紛れて這う這うの体で逃げ出した。

 藩内が攘夷の成功に大いに沸いたのは言うまでもない。

 勢いに乗った長州は、二十三日にはフランス艦キャンシャン号を、二十六日にはオランダ艦メジュサ号を砲撃。

 凱歌を上げた。

 久坂と楢崎弥八郎は、戦果の報告のため二十七日に長州を経ち、上京した。京の桂らは、攘夷の成功に喜色を示したものの、実際に攘夷を実行したのは、数ある藩の中で長州一藩のみ。他藩は動く気配すらなかった。

 一方で、久坂らが不在の間に、京では大きな事件が起こっていた。

 二十日に、攘夷派で知られた姉小路公知卿が御所からの帰り道、朔平門のそばで暗殺されたのである。

 桂は三条公を通して、朝廷に、長州を御所の警護に任じるよう進言。これが容れられ、朝廷は長州藩に堺町御門、薩摩藩に乾門の警備を命じた。

 とんぼ返りで長州へ戻った久坂と楢崎を待っていたのは、外国の報復攻撃で壊滅した沿岸の砲台と、大破した艦隊、百人を超える死傷者という現実だった。

 沿岸の防備に当たっていた大組士たちは、外国の圧倒的な武力を前に無様な敗走を晒していた。幸い、外国は長州の軍備を破壊すると引き上げていき、全面戦争に突入する事態にはならずに済んだ。

 馬関の防備体制を立て直すため、藩主の命により隠棲していた高杉が担ぎ出され、高杉の提案で民兵からなる『奇兵隊』が創設された。

 息つく暇もなく再び上京した久坂から高杉のことを聞いても、草月の気は晴れなかった。

 長州は本当に攘夷を実行してしまった。しかも、何の警告もなく、一方的に大砲を撃ちかけたのだ。

 最初に知らせを聞いた時、相手がイギリス船ではなかったことにほっとした。

 そして、ほっとした自分が嫌になった。

(こんなの、おかしい。外国船っていうだけで、何もしてない船を攻撃するなんて……。これじゃ、辻斬りと同じだ。外国に報復されても、文句なんか言えないよ……)

 草月の思いなど知らぬように、時代は止まることなく動いていく。

 朝廷が討幕の意思を示したことで、ずっと慎重な意見だった桂も、ついに討幕を決意。江戸藩邸に残っていた六ポンド砲や武器・弾薬をひそかに京へ運ばせた。

 七月の初めには、来島が兵を率いて上京。

 すっかり物々しい雰囲気に変わってしまった藩邸から逃げるように、草月は芸の稽古に打ち込んだ。

 上京してきた山田も大砲掛を任じられた堺町門の警備に忙しく、あれ以来きちんと話せていない。

 無事に江戸を出航した、という伊藤からの報せだけが、今の草月にとって唯一の明るい出来事だった。



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