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花綴り  作者: つま先カラス
第三章 京
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第36話 新しい友達

「あ、おはようございます、山田さん」

 京の生活にもようやく慣れたころ、井戸端で溜まった洗濯物を洗っていた草月は、回り廊下を歩いてくる年若い武士に気付いて、明るく声をかけた。

「……どうも」

 しかし、彼――山田市之允は、ちらりと一瞥をくれただけで、無愛想に通り過ぎていく。

(あちゃー、すっかり嫌われちゃったみたい)

「市と何かあったの?」

 水を汲みに来たらしい伊藤が、山田の去った方を見ながら不思議そうに問うた。

「この前、みんなで島原に遊びに行ったでしょう? その時、失礼なこと言って、怒らせちゃったんです」

 島原は幕府公認の花街の一つで、京中心から西へ少し外れた田畑の広がる一画にある。東の大門から西へまっすぐ伸びる道筋どうすじと呼ばれる通りの両脇に六つの町を配し、そこに何十軒もの揚屋や置屋が整然と建ち並ぶ。立地や造りは江戸の吉原と似ているが、人の出入りを厳しく制限している吉原と違って、島原は男女問わず自由に通行可能で、遊女もまた、手形さえあれば、街の外へ出ることができた。

 この時集まったのは草月や高杉、久坂、伊藤らお馴染みの面々を含め十人ほど。中には初めて見る顔もいたが、多くが草月と同年代くらいの若者である。

 久坂が案内したのは、島原の中でも一際格式の高い『角屋』という老舗の揚屋で、目にも鮮やかな朱色の二階建て、格子造りの風格ある佇まいが自然と目を引く建物だった。玄関の右手にある階段を上がり、さらに奥へ進むと、『青貝の間』と呼ばれる一室に至る。

 『青貝』の名の通り、壁一面に螺鈿細工が施され、絢爛豪華という言葉はこの部屋のためにあるのかと思うほどのしつらえだった。西隅に据えられた露台からは、階下の庭園を見下ろすことができ、桜の時期はそれは綺麗なんどすえ、とは女将の言だ。

(なんか、格式高すぎて、ものすっごく場違い感が半端ないんだけど……)

 だが、居心地が悪いと思っていたのはほんの最初だけ。

 置屋から派遣された芸妓の達者な踊りと、まだ十代半ばといった舞妓の初々しい踊りにたちまち魅了されて、いつの間にか格式うんぬんは頭からすっ飛んでいた。

 目の前の膳には、繊細に盛り付けられた季節の野菜や汁物が並び、味は正直少し薄いかな、と思ったが、これが本場の京料理か、と思うとその薄味さえ良いように感じられるのだから、我ながら現金だ。

「ねえ、この大根のお漬け物食べた? 歯ごたえも良くて、美味しいよね」

 高揚した気分のまま、草月は隣に座る武士に気さくに話しかけた。年の頃は十五、六歳の若い武士。丸顔に、困ったような下がり気味の眉がかわいい。初対面だが、さっきまでの自分と同じように、居心地悪気に尻をもぞもぞさせている様子に親近感を覚えていた。

 しかし、少年はぎょっとしたように目を剥いて、それから顔を真っ赤にして全力でそっぽを向いた。

(え、私、何か悪いこと言っちゃったかな!?)

 うろたえる草月に、向かいから高杉の笑い声が重なった。

「草月、子供に見えてもそいつは一応十九歳じゃぞ」

「え!?」

「十九歳じゃなく二十歳です! それに、一応は余計ですけ!」

 少年、もとい青年の猛烈な抗議にも、高杉はどっちでも大して変わらんと、涼しい顔。

「あ、あの、ごめんなさい。失礼な物言いしてしまって……」

「もうええです。慣れちょりますけえ」

 慌てて謝ったものの、山田は怒った顔のまま、とりつく島がない。結局、ぎくしゃくした雰囲気は解けぬまま、宴会を終えたのだった。

 後で高杉から、彼は山田市之允という名で、共に村塾で学んだ仲間だと聞かされた。

「――そんな面白いことがあったんだ。おっかしいなあ、俺も同じ部屋にいたのに、全然知らなかった」

「伊藤さんは舞妓さんとお座敷遊びに夢中みたいでしたもん。……それで、あれからもう一度話す機会を窺ってたんですけど、なかなか機会がなくて。今の感じだと、まだ相当怒ってましたよね」

 どうしよう、とため息をつくと、伊藤はへらりと笑って草月の肩を叩いた。

「大丈夫、市はそんなへそ曲がりじゃないよ。きっと、女子おなごとどう話したらいいのか、戸惑ってるだけだと思うぜ? きっかけさえあれば、仲良くなれるんじゃないかな」

「だといいんですけど……」


                         *


 それから数日後のことだった。

 京の町に、春の嵐が吹き荒れた。朝から降り始めた雨は風と共に次第に激しさを増し、夜には凄まじい暴風雨となった。それはガタガタと壊れんばかりに雨戸を揺らし、草月はまんじりともしないまま寝返りを繰り返していた。

 それでも、いつの間にかうとうとしていたらしい。ふと目を覚まして、風雨の音がしないことに気付いた。ごそごそと起き出して雨戸を開けると、もう朝になっていたのか、眩しい光が目に飛び込んでくる。

「わ……」

 まるで昨夜の嵐が嘘のように、雲一つない青空がひろがっている。まだ少し強い風が、はたはたと袂を揺らす。

 だが、嵐の爪痕はあちこちに残されていた。裏を流れる高瀬川は、増水して激しい濁流となっており、藩邸では一部で屋根瓦が剥がれ落ちる被害や、庭木の倒木、雨漏りの被害などが確認された。

 大きな怪我人が出なかったのはまったくの僥倖だ。

 草月は南西の一画の掃除を割り当てられ、庭に散乱したゴミをせっせと拾っていた。大量の落ち葉に、折れた木の枝、紙くず、どこから飛んできたのか、端の欠けた茶碗や、何に使っていたのか知るのが怖いような紫色に変色した手ぬぐい……。

 ぬかるんだ地面を歩き回ったせいで、草履はすっかり泥まみれだ。着物にもあちこち泥はねがついてしまっている。

(これが終わったら、すぐに洗わないと――)


 にぃにぃ


 微かな声が聞こえた気がして、草月は作業の手を止め、振り返った。

(……赤ちゃんの声?)

 耳をすませてみるが、それきり声は聞こえない。周りを見渡してみても、せわしなく廊下を行き交う藩士たちがいるだけだ。再び作業に戻った時、また同じ声が耳朶を震わせた。

 今度は耳に神経が集中していたせいか、先ほどよりもはっきりと聞こえた。

(気のせいじゃない。生き物の声だ)

 声の聞こえた方、庭の隅にある倒壊した外壁の瓦礫に目を留める。中を覗くと、奥で濡れた体を震わせてこちらを見つめる子猫と目が合った。

「――大変! 大丈夫!? すぐに助けるから!」

 草月はぬかるんだ地面に腹這いになると瓦礫の下に潜り込み、子猫に向かって手を伸ばす。

だが、

(もう、ちょっと……!)

 帯の結び目がつかえて、あと拳一つの所で届かない。さらに体を押し込もうとした時、瓦礫がみしりと嫌な音を立てた。

「――おい、何しちょる? 危ないぞ!」

 苛立った声と共に、強い力で引きずり出される。泥まみれの草月を睨み付けていたのは、あの山田だった。

「何を考えちょるんじゃ! 崩れたらどうする!?」

「あの! この下に子猫が閉じ込められているみたいなんです」

「猫?」

「はい。だから早く助けてあげないと……!」

「馬鹿か! 瓦礫が崩れたら、お前まで下敷きになるぞ」

「でも、見つけたからには放っておけません! 早く出して暖めてあげないと、だんだん声も弱くなってるんです。山田さんにご迷惑はかけませんから!」

「やめろと言っちょるじゃろ」

 山田は今にも潜ろうとする草月を押し退け、

「俺が行く」

「えっ?」

「俺のほうが体が小さいけぇ、奥まで入っていける」

 怒ったように言って、脇差しを近くの廊下に立て掛けると、驚く草月を尻目に、ためらいなく瓦礫の中に体を押し込んだ。

「気をつけて!」

 はらはらしながら見守ることしばし。

 ついに、

「よし、掴んだ! ――出せ!」

「はい!」

 山田の足を掴んで引っ張り出す。

 山田の腕に抱かれた手のひらほどの小さな子猫は、もはや鳴く気力もないほどにぐったりしている。草月と山田は、急いで乾いた布で体を拭いてやり、湯たんぽを用意して体を暖めてやったりと、かいがいしく世話をした。その甲斐あってか、再びナァナァと鳴き出すようになったが、栄養を摂らせようにも何も食べてくれない。

「歯は生えてきてるから、食べられないことはないと思うんですけど……」

 台所から失敬してきた魚の擂り身を前に途方にくれる。

「固形物が駄目なら、水はどうじゃろう。砂糖を水に溶かしてやったら、少しは飲んでくれんじゃろうか」

 山田の提案で、ぬるめのお湯に砂糖を溶かし、指先に浸して子猫の口許に垂らしてみる。

 一滴、二滴……。

 反応はない。

 時間をおいて再び試みる。

 二人が息を詰めて見守る中、子猫がかすかに口を開いた。

「――飲んだ!」

 はしゃいだ声が重なる。

 一度飲んで弾みがついたのか、子猫はうるさいほどに鳴いて次をせがんだ。

「良かった、この分だと元気になりそうですね」

「ああ、油断はできんが、まずは一山越えたってとこじゃな」

 顔を見合わせ、ふふふと笑う。

 最初のわだかまりはどこへやら、二人はいつの間にか普通に話をしていた。そして、子猫が元気になるにつれてさらに距離は縮まり、離乳食を食べられるようになる頃には、すっかり打ち解けた仲になっていたのだった。




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