第34話 京にて
碁盤の目に整然と整備された通りに、格子窓や犬矢来のある独特の町家、そして大小無数の寺が建ち並ぶ古都、京。
長州藩邸は、東海道の終点・三条大橋から北に少し行った先の高瀬川沿いに位置している。高瀬川は海上交通の要である伏見とつながっており、その利便性の良さから、この一画には長州藩の他にも対馬藩や土佐藩など多くの藩が屋敷を構えていた。通りを挟んだ向かいには、広大な敷地を有する寺が荘厳な姿を見せている。
江戸の藩邸ほどの大きさはないものの、それでも十分大きな京邸は、今は翌日の行幸準備でごった返していた。高杉と志道は世子に着京の報告をすると言って去り、残った草月は品川弥二郎に邸内を案内してもらうことにした。
「ずいぶんと皆忙しそうですね」
「念願の行幸が明日だからな。万が一にも遺漏がないように必死なんだよ」
「……じゃあ、桂さんも、しばらくは時間とれないかなぁ。無事着いた、ってご挨拶しておきたかったんですけど」
「ああ、そりゃ無理無理」
品川はひらひらと手を振り、
「最近じゃ、寝る暇もないくらいの仕事量だから」
「そうですか……。黙って出ていくわけにもいかないし……」
「へ? 出ていくって?」
「あ、私、藩邸を出て、自活しようと思ってるんです」
高杉に話したのと同じことを言って聞かせると、品川はええっと叫んでがっしと草月の肩を掴んだ。
「駄目駄目駄目、絶っ対、ダメ! せっかく草月が来て、窮屈な藩邸を出られると思ったのに!」
「はい?」
「ここは手狭だから、藩士の多くは外に家を借りて住んでるんだよ。俺は熊次と同室だったんだけど、熊次と相談して、草月にその部屋を譲って、藩邸を出るつもりで、近くに借りる家も決めてたんだ。だから、せめて桂さんに会うまではその部屋使ってよ。掃除もしてあるしさ。ほらここ、生活道具も一式揃ってるから。いいだろ、決定!」
強引に決めてしまうと、抗議は受け付けないとばかりに、荷物を置くと、さっさと草月を仲間のもとへと誘った。
*
明けて賀茂行幸当日。
冷たい雨がそぼ降る生憎の天気であったが、一生に二度とない機会を逃すまいと、大勢の人々が見物に集まった。
今回の行幸は、下鴨神社と上賀茂神社へ参拝し、攘夷祈願をするのが目的だ。同時に、『天皇に供奉する将軍』という図式を見せることで、天皇が将軍より上であるという認識を世に広く知らしめる目的もあった。
「それにしても、すごい人出ですね」
高杉と共に藩邸を出た草月は、少しでも良く見ようと、黒山の人だかりの中を強引に前へ進みながら傍らの高杉に話しかけた。高杉は器用に空いた隙間に体を滑り込ませながら、まあな、と言った。
「御所の外への行幸は、二百年ぶりのことらしいけえの」
「二百年!? え、まさか、その間の歴代天皇は、一歩も御所の外へ出たことないまま、一生を送ったってことですか!? うわ、そりゃあ、今の天子様も、外国を嫌がるわけですよ。自分の住んでる町すら知らないんですから」
(……なら、これって、天子様に外の世界を知ってもらう良い機会なのかも。少しずつ外のことに触れて、いつか外国のこともちゃんと知ってもらえたら)
二人はどうにか通りが見える場所に陣取った。ぬかるんだ地面に膝をつき、雨に濡れながら待つことしばし。どよめきと共に周囲が一斉に平伏し、草月も右に倣う。こっそり上げた視界の端に、やがて行列の先頭が見えてきた。
先陣を務めるのは、対馬藩や津和野藩主、そして長州藩世子定広ら十一名。あいにく世子定広の姿を見つけることは出来なかったが、藩主が揃って馬に乗り、陣羽織に身を包んだ姿は迫力満点だ。その後を、衣冠束帯の正装に身を包んだ関白の輿や、飾り馬に跨った朝廷の重鎮、公家などが続く。そして、彼らに守られるように進むのが、四、五十人もの担ぎ手に担がれた、ひときわ煌びやかな神輿、天皇の乗る鳳輦だ。漆と金で装飾された屋根の上に、大きな金の鳳凰飾り。側面には緻密な模様が織り込まれた絹の布がかけられている。
「すごい……、綺麗……」
ありがたや、と手を合わせて拝む者、感極まって涙を流す者。
草月もその豪華さに圧倒されつつ、高杉に耳打ちした。
「でも、あれじゃ、御簾で全然中が見えませんよね。本当に天子様が乗ってるのかも分かりませんよ」
「なら、御簾をめくって見てみるか?」
「うわ、ちょっとそれはさすがにまずいですよ! 即お手打ちです」
草月の剣幕に、高杉は押し殺した笑いをもらした。
「冗談じゃ」
「高杉さんが言うと、冗談に聞こえないんですよ」
そうこうするうちに鳳輦は通り過ぎ、続いて後陣の武家行列がやって来た。先頭を行くのは、馬に跨り、陣羽織を着た年若い武家だ。
「あれが将軍か。まだ子供じゃのう」
「え、あの子が将軍?」
若いとは知っていたけれど、本当に若い。まだ少年と言ってもおかしくないくらいの年齢だ。気の毒なくらい濡れそぼった体で、精一杯将軍たろうと背筋を伸ばした感じがいじましい。
横で高杉が、
「よっ! 征夷大将軍!」
と叫んだのにつられ、草月も頑張れの気持ちを込めて呼びかける。
「待ってました!」
ぎろりとお付きの者達がこちらを向いた時には、二人はもう素知らぬ顔で周りと同じに下を向いている。伏せた頭の下でこっそり目と目を見交わし、悪戯が成功した子供のようにくすりと笑いあった。
*
その夜遅く。草月は桂に呼ばれ部屋を訪ねた。高杉が同席していることに少し驚きながらも、促されるまま腰を下ろす。
「こんな時間にすまないね。色々たて込んでいたものだから」
桂の顔には少し憔悴の色が見える。仕事用の絹服を脱いでいないところを見ると、仕事を終えてすぐに呼んでくれたのだろう。
「君の方も色々大変な旅だったようだが、疲れはとれたかい」
「はい、おかげさまで。お忙しいのに時間を割いてもらってすみません」
「いや、かまわないよ。君のことは女将から頼まれているからね」
「あの、桂さん、そのことなんですけど……」
言いかけた草月を桂は制して、
「高杉から聞いたよ。藩邸を出て暮らしたいそうだね」
聞いているなら話が早い。草月はずっと抱いていた気持ちをぶつけた。
藩邸に居候させてもらって、衣食住だけでなく、学ぶ場を与えてもらい、京まで連れてきてもらえて心から感謝していること。京に来て、役人から匿ってもらう必要がなくなった今、これ以上長州にやっかいになって、忙しい皆に迷惑をかけるわけにはいかないこと。
一気に話し終えて一息つくと、黙って聞いていた桂はゆっくりと頷いて言った。
「草月、君の気持ちは良く分かった。だがね、分かっていると思うが、知らぬ町で生きていくことは大変なことだ。ましてやおなご一人ではね。君を心配する我々の気持ちも理解して欲しい。――これを」
桂は傍の手文庫から折り畳まれた紙を取り出して草月の前に広げた。京の地図のようだが、あちこちに朱で印が付けられている。
「この印がなんだか分かるか?」
草月はただふるふると首を振った。そんな草月を見て、桂は静かに言った。
「猫の屏風を探して、皆が聞き込んだ家だ」
はっ、と草月の目が大きく見開かれる。
「一軒、一軒、暇をみつけてはね。誰に命令された訳でもない。ただ君が好きだからだ。私たちの誰一人、君を迷惑だなどと思ったことはない。君は私たちの大事な友人だ。どうか、力にならせて欲しい」
「……」
目の奥が熱くなり、地図がぼやけた。
言葉が出なかった。
(みんな、どうして、そんなに優しくしてくれるの。決心したのに。一人で頑張ろうって。なのに……。そんなふうに言われたら、また甘えてしまうじゃない)
すっと横から懐紙が差し出された。
「いいから、ここにいると言え。おのしゃあ周りに気を使いすぎなんじゃ。僕らはおのしが思っちょるほど柔ではない。桂さんなんか迷惑かけられるのが嬉しいようなところがあるけぇ、どんどん我が儘言ったほうが喜ぶぞ」
「人を変人みたいに言わないでくれ。それにお前はもう少し自重しろ」
――ああ、本当に。
私の周りはいい人達ばかりだ。
泣き笑いの顔で、草月は深々と頭を下げた。




