第33話 旅の終わり
果てしなく続くように思えた長い旅も、残すところあと十宿足らずとなった。しかし、最後の難所と言われる険しい鈴鹿峠を一息に踏破し、土山宿までやって来たところで思わぬ問題が発生した。路銀が底をついたのである。
「ええっ!? だって志道さん、虎の子の五両があれば、京まで余裕の旅だって言ってたじゃないですか! まさか、考えなしに使ってたんですか!?」
「うるさいのう。お前じゃって、名物と見れば見境なく食いまくっちょったじゃろう!」
「私は別に見境なくなんて食べてません! 京までの日数と残金と、ちゃんと計算して買ってました! ……もう、志道さんが旅慣れてるから、安心してお金の管理任せてたのに」
坊っちゃん育ちで金に困ったことのない高杉ならともかく、家柄は良くても貧しく苦労したらしい志道が、こうも金の扱いに無頓着とは。
「私、二度と志道さんの金銭感覚信じませんからね!」
ぴしゃりと宣言して、草月はきょろきょろと通りを見回した。
「こうなったら、木賃宿でも探して凌ぐしかないですね。足りない分は着物でも売って……」
「いや、それよりわしに名案がある」
まったく動じた風のない志道に連れて行かれたのは、宿場でもひときわ目立つ、大きな建物。大名や公家などが泊まるための宿泊施設、本陣である。平屋造りの広大な屋敷で、荘厳な門構えと玄関が特徴だ。
「こんな立派な宿、泊まれるわけないでしょう。いくらかかると思ってるんですか!」
早くも腰が引けている草月に対し、高杉は堂々としたもので、涼しい顔で庭木を眺めている。
「こういう交渉事は聞多にまかせちょったら、心配いらん。今はどこの大名も泊まっちょらんようじゃしな」
「……? そんなのどうして分かるんですか?」
「これまで通った宿場で、家紋の入った幔幕を周りに張っちょった宿があったじゃろう?」
「そういえば、何度か見かけましたけど……。あ、あれって、その家紋の大名が泊まってますって印だったんですね?」
「そういうことじゃ。大名がいないなら、普通の客を泊めてもなんの問題もない」
「なるほど、……って、いえ、問題はそこじゃないでしょう!」
うっかり納得しそうになって、草月は慌てて話の軌道を戻す。
「泊まれるとか以前に、お金がないっていう……」
その時、主人らしき男と志道が戻って来たため、会話は途中で打ち切きられた。かしこまった様子の主人に、丁重に部屋へ案内される。
「一体どうやったんですか」
主人がいなくなるのを見計らい、すっかり面食らって尋ねると、
「わしらは長州藩士で、殿から直々に重大な命を受け、急ぎ京へ向かう途中じゃと言うたら、快く部屋を貸してもらえた」
その上、会所に話をつけて、馬まで借り受けたという。勿論、代金は長州藩持ちだ。
「……」
草月は、呆れるべきか感嘆すべきか判断がつきかねて、結局どちらともとれないため息をもらした。
「よくまあ、そう口が回りますね」
「わしは別に嘘は言っちょらんぞ。藩命を受けちょるのは事実じゃしな」
志道は得意気に鼻を膨らませた。
「それに、この本陣は、周布さんが前に泊まったことがあると聞いちょったけぇ、長州藩士と言えばツケがきくじゃろうと思ったんじゃ」
というわけで、その日は志道の機転(というより詭弁)で快適な一夜を過ごし、翌日は馬で草津宿まで一息に駆けた。
そして、明日はいよいよ京、という日。宿で荷物の整理をしながら、草月は感慨深げに言った。
「もう明日には京か……。永遠に着かないような気がしてましたけど、いざ目の前にすると、何だかあっという間だったような気もしますね。……高杉さんと志道さんは京に着いたらどうするんですか? やっぱり、久坂さん達みたいに、攘夷活動ですか?」
「どうじゃろうな。僕は今の時点では何も考えちょらん」
ごろんと寝転がったまま、高杉が答える。
「ただ、やたらに公家の所へ出入りして、それで自分が偉くなったように思っちょる奴らの仲間になる気はない。僕はやるなら、自分の力だけでやる。それがどんな危険なことであってもな」
「まさか、御所に忍び込んで、天子様に直接攘夷実行を迫るなんてしませんよね」
「うん、それもいいな」
冗談に真顔で返され、高杉が本気で考え始める前にと、草月は急いで志道に話を振った。
「そういえば、志道さん、前に言ってた洋行計画は進んでるんですか?」
「ああ。久坂から佐久間象山の話を聞いて、ますます行く気が出た。具体的な計画も詰めて、後は軍資金だけじゃ。一緒に壬戌丸に乗っちょった何人かには、一緒に行かんかと声をかけちょる。俊輔も誘っちょるんじゃが、なかなか色好い返事をくれんでな」
「え、伊藤さんも?」
「あいつも日本を出て見聞を広めるべきじゃと思うんじゃが、異国に学ぶなど日本人の恥じゃと言って譲らんのじゃ。俊輔の気持ちも分かるが、現実として、外国の技術は日本より進んじょる。十年先を見据えた時、異国の知識は必ず攘夷のため役立つ。回り道に見えても、これこそが攘夷の近道じゃと説いてもまるで聞く耳持たん」
「そりゃあ、久坂さん達が京で華やかに活動してるって聞いたら、自分もって思うんじゃないですか? なかなか上京の許可が出ないって、悔しがってましたし。――高杉さんは、行かないんですか? 前にイギリスに行く予定だったのに、行けなかったでしょう」
高杉はこちらを見ぬまま答えた。
「僕は行かん。今、長州で異国を見たことがあるのは僕しかおらんけぇの。そういう奴も必要じゃろう」
「そうですか……」
なぜかそれは草月の耳には言い訳めいて聞こえた。
*
(十年かぁ……)
あてがわれた部屋に戻って布団に入ると、先ほどの会話が思い返される。
(きっと、志道さんがイギリスから帰ってきた頃には、日本は全然違ってるだろうな)
今から数年後、大政奉還が成され、幕藩体制は瓦解する。そして新しい明治の世が来るはずだ。
(そうしたら、攘夷も何もなくなっちゃうけど)
果たして自分はその時、そこにいるのだろうか。
ちゃんと、家に帰れているのだろうか。
(――もし、帰れなかったら?)
ぞわりと沸き上がった不安を無理やり押し込める。
(駄目だ、駄目だ。京に着く前から不安になっちゃ……。全ては京に着いてから!)
それでも、一度沸き上がった不安は容易には消えてくれなかった。
*
翌朝、ひどい気分で目覚めたが、明るい陽光と、もうすぐ目的地に着くという高揚感が次第に心を満たしてきた。
鏡のように凪いだ琵琶湖の南端をちらりとかすめ、古の和歌に詠まれた逢坂関で有名な逢坂峠を越える。ここまでくれば、もう京は目と鼻の先だ。
坂道がなだらかになり、徐々に木々がまばらになって、視界が開けたその先に、大勢の人が並ぶ木戸が見えた。
「あれが、京の入り口ですか?」
今にも駆け出しそうな草月に、高杉はひょいと笠を上げて答えた。
「ご明察。――なんとか、間に合ったな」
江戸を発ってより、歩き続けること十数日。
一行が京に着いたのは、天皇の賀茂行幸を前日に控えた、三月十日のことだった。




