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花綴り  作者: つま先カラス
第二章 東海道
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第32話 七里の渡し

 ここ数日雨を降らせた雨雲はようやく東へ去り、その日はきれいに晴れてぽかぽかと春らしい陽気になった。街道の所々に残る水溜まりが日に反射してきらりと光る。うっかり足を突っ込まないよう避けながら進んでいくと、やがて前方に大きな町が見えてきた。

 東海道四十一番目の宿場町、宮宿である。ここからから次の桑名宿までは、『七里の渡し』と呼ばれる海路で結ばれている。人や物が多く行き交う港としてだけでなく、熱田神宮の門前町としても栄える宮宿は、大名が泊まる本陣や脇本陣を数多く擁し、広い通りには数百の旅籠や商店が建ち並んでいる。

「すごい人ですね! お祭りでもあるみたい!」

 通りの突き当たりにある船着き場には、大小様々の船がひきめしあい、船を待つ人でごった返している。叫ぶように言わなければ、すぐ隣にいてさえ、回りの喧騒にかき消されてしまう。

「宿場町の大きさでは東海道随一じゃけえの!」

同じように叫び返しながら、高杉はしっかりと荷物を握り直した。

「くれぐれもはぐれるなよ! はぐれたが最後、二度と会えんと思え!」

 おしくらまんじゅうのような人混みをかきわけ、船会所で乗船手続きを済ませると、三人は若い船頭が操る小型の帆船に乗り込んだ。桑名宿までは二刻ほど。波も穏やかで、船旅には絶好の日和である。

 船には二十人ほどが乗り合わせ、銘々景色を楽しんだり、体を休めたりしている。海を渡る風は少し冷たいが、帆をいっぱいに広げて走る爽快さはそれを補って余りある。

(これまでの道中で、川越えは何度か経験したけど、どれもあんまり良い思い出じゃなかったもんなあ)

 特に、島田宿と金谷宿の間にある大井川は、川幅が広く、流れも急なことで有名で、『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』と歌に詠まれるほどの難所だった。ここを渡るには、人足に手を引いてもらうか、肩車をしてもらう、もしくは人足の担ぐ蓮台に乗っていくしかない。草月達は蓮台に乗って渡ったのだが、急な川の流れに不安定に揺れる蓮台の上、落ちないよう縁にしがみつくのに必死で、とても生きた心地がしなかった。

 それでもこの時の水深は帯の下。ひどい時には脇の下まで水がくると聞いて、命知らずの人足らに恐れ入ったものだった。

 だから、まともな船旅はこれが初めてなのだ。

 船縁から身を乗り出し、好奇心に目を輝かせている草月の隣で、高杉は背負っていた風呂敷包みを下ろすと、おもむろに四角い箱のようなものを取り出した。中には手のひらに収まるほどの円柱形の木片が十本ほど入っており、それらを慣れた仕草でかちりかちりと嵌めていく。いくらもしない内に、高杉の手には立派な三味線が握られていた。

「何度も見ても不思議ですね、その道中三味線って」

 海から目を離し、じっとその様子に見入っていた草月はしみじみと言った。

 『道中三味線』とは、棹を細かく分解して胴の中に納められるという優れもので、高杉の大のお気に入りだ。初めて見せてもらった時は、あっという間に三味線が現れては消える様子に、まるで手妻でも見ているようだと思ったものである。

 しきりに感嘆する草月に、高杉は自慢の玩具を誉められた子供のように嬉しげに顎をそらした。

 じゃん、と景気付けのように一度鳴らして、それからゆっくりとつま弾き出す。船の揺れに合わせるような、穏やかな拍子の音曲。

「あんじょうよう、しやぁすもんですなぁ」

 声をかけてきたのは、近くに座っていた商人らしい丸顔の男だ。

「ああ、こりゃー失礼。私は桑名で小間物屋をしとる清右衛門いうもんです」

 男は人好きのする顔を深々と下げ、

「宮へは度々商談に参っておったのですけんど、船中で三味線を弾かれる方は珍しいもんだで。お侍ゃー様方は、どちらから?」

「江戸からです。宮宿はすごい賑わいですね。まるでお祭りみたいでびっくりしました」

「あれでもすけなくなった方でございますよ。こねぇーだ公方様が何百年ぶりかでご上洛されたでしょう。その先触れやら何やらで、去年の暮れから、ようけご家来衆が通っていかれましてなあ。そりゃあ、どえりゃー騒ぎでございました」

「人一人が旅をするというだけで、そんな大事になるんですね」

 将軍上洛という、今まで漠然としか捉えられていなかった出来事が、にわかに凄味を帯びて迫ってきた。と同時に、その大事を動かせる立場に久坂がいるという事実に戦慄する。

 一体、久坂は京でどれだけ力をつけたのだろう。会うのが楽しみなような、怖いような、複雑な気持ちになる。

 順調に旅が進めば、この行幸に間に合うように京に着けるだろう。

(そのためにも、今のうちにゆっくり休んで、体力つけておかなくちゃ)

 心の中で気持ちを新たにしていると、威勢の良い掛け声と共に、美味しそうな匂いをただよわせた煮売り船がすいと近づいてきた。

 肝っ玉女将、といった風の恰幅の良い女が器用に操る船には、餅や握り飯、酒といった定番の品から、桑名名物の焼き蛤まで所狭しと並べられており、船の上とは思えないほどの豪華さだ。小型の釜戸が備えてあるので、熱々出来立てが食べられるのが何とも心憎い。

 早速買い求めた蛤にはふはふとかぶりつけば、じゅわ~と滴る汁と共に、磯の香りと旨味が口いっぱいに広がる。

 くぅーっ、と言葉にならずに見悶えて、そのまま物も言わずに食べ進める。貝殻に残った汁まできれいに飲んで、草月はようやく一息ついた。

「ああ、幸せ~」

「格別でございましょう、ここの蛤は」

 隣で清右衛門も後味を噛み締めるように口をすぼめた。

「何度食べても堪りません」

 船のあちこちで舌鼓を打つ音が聞こえ、やがて酒が回り出すと、船内はにわかに宴会のような趣になっていた。酒でほろ酔いになった者が唄い出せば、周りも自然と体が踊り出し、手拍子が沸き起こる。

 いつの間にか、その宴の輪の中にすっかり溶け込んでいる草月を見て、志道がため息混じりに呟いた。

「あいつは、どんな場所にもすぐに馴染んでしまうな。ありゃ一種の才能か」

「珍しいの、おのしが草月を褒めるとは」

 からかい交じりに高杉が言うと、志道は嫌そうに口を歪めた。

「別に褒めちょらん。呆れちょるだけじゃ」

「まあ、言いたいことは分かるがの。草月の持つ雰囲気には、どこか人を和ませるようなところがあるけえ。それに周りも釣り込まれてしまうんじゃろう。あの頑固者のじい様でさえ、例の女形おやま事件以来、草月には何かと弱いしの」

 高杉は思い出したのか、くっくっと喉の奥で笑った。

 女形おやま事件とは、草月が藩邸に来たばかりの頃、来島が草月を女形と間違え、大爆笑を誘った出来事のことで、周布の酒乱伝説と共に一部で藩邸の語り草になっている。

「単に能天気なだけとも言うがな」

 ばっさりと志道が言い、

「素直じゃないのう」

 高杉が笑って、くいっと酒を煽ったところへ、当の本人が戻って来た。両手に串だんごを抱え、満面の笑みをたたえて。

「見てください、こんなにいっぱいおすそ分け頂きました」

 嬉しげに二人にも差し出しながら、面白い話を聞いたんですよ、と切り出す。

「今、桑名で、『福ちゃん』ていう猫が人気になってるそうなんです」

「猫?」

「はい。無人の小さな神社に、最近住み着いた野良の雉猫らしいんですけど、その猫、額の縞模様がちょっと変わってるんです」

「まさか、鳥居の模様になっちょるとか言わんじゃろうな」

「あ、志道さん凄い! 当たりです。神社に鳥居模様のある猫なんて、ぴったりの取り合わせだと思いません? 福を呼ぶ猫で『福ちゃん』。最近じゃ、その猫見たさにお参りする人が増えたり、猫にあやかった福ちゃん饅頭が売り出されて評判になったりしてるそうですよ。清右衛門さんも、福ちゃんにちなんだ小物を売り出せないか考え中だって言ってました」

「よくやるのう。そんなもの、猫がいなくなったらすぐに終わりじゃろうに」

「だからこそ、今のうちに儲けておこうっていう商人魂なんじゃないですか? それに、期間限定って言われたら、見たくなるのが人情です。せっかくだから、私たちもお参りしていきましょうよ。うわさの福ちゃんに会ってみたいです」

「ふうん。まあ、話の種にでも見に行くか。思ったより早く着きそうじゃしな」

 高杉が指差したその向こう。

 水平線のその先に、うっすら青い陸地が見えていた。



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