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花綴り  作者: つま先カラス
第二章 東海道
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     幽霊宿・後

 厚い雲の隙間から、ぼんやりと滲んだ月が覗く。かすかに冷気をはらんだ風が、ただでさえ心もとない手燭の灯りを非情に揺らす。

 さして広くもない宿である。あっという間に半周して、二人は裏手にある庭へと出てきていた。辺りには人家の明かりもなく、一面、墨を何重にも塗り込めたような闇が広がっている。

(なんか、いかにも幽霊が出そうな雰囲気……)

 草月はぶるりと身を震わせ、前を行く高杉の袖を引いた。

「ねえ高杉さん、もう帰りましょうよ。こんなに探して何もないんです。さっきのは何かの見間違いかも……」

「何を言うちょる。そんなはずがあるか。せっかく面白くなってきたんじゃ。引き返す手はないぞ」

「こっちはちっとも面白くないですよ! そろそろ志道さんもお風呂から上がる頃だし」

「分かった、分かった」

 仕方ないのう、そう言って高杉が踵を返した、その時だった。

 闇の中に、突然、ふわりと白い布がひるがえった。ゆらり、ゆらりとまるで誘うように揺れる。

 え、と思う間もなく、隣を高杉が迷わず走り出す。まさか追いかけてくると思わなかったのか、幽霊は戸惑ったように布を揺らし、すうと逃げるように後ろに下がった。

 だがそれより高杉の足の方が早かった。一気に間合いを詰めて片手で幽霊の動きを封じると、空いた手で布を取り去ったのだ。手燭に照らされた顔がさらされる。

「――え? ……お、くみ……さん?」

幽霊――おくみは、草月の目を避けるように顔を背けた。

「幽霊の正体はおくみさんだったの? そんな……、何で、わざわざ宿の評判下げるようなこと……?」

「下げたかったからに決まってるだがね!」

 おくみは、きっ、と顔を上げ、開き直ったように顎を突き出した。

「あたしはね、この宿も、女将さんも、大嫌いなんだがや。だもんで、わや(台無し)にしてやりたかったんだが! どうして、って顔しとるね。じゃあ教えたる。半年前のことだがや。どこかのお武家の若様が御忍びで遊びに来られて、この宿に泊まられたんだが。あたしはその若様のお酌をさせられることになった。その日はおとっつぁんの具合が悪うて、あたしは早く帰らせてもらうはずだったて。ほんだけんど、女将さんは若様からの祝儀に目が眩んで、あたしを帰してくれんかっただぎゃ。ようやっと解放されて家に帰った時には、もう冷とうなっとった。小さい頃におっかさんが死んで、あたしにはおとっつぁんしかいなかったのに、死に目をみとることさえできんかった。分かっただきゃ? 女将さんはね、強欲で最低な人間なんだて」

「そんな……、きっと何かの間違いだよ。そりゃ、私は今日初めて会ったばかりだけど、女将さん、そんな人には見えなかった。お父さんのことは気の毒だったけど、女将さんも若様には逆らえなかったんじゃないのかな。おくみさんだって本当は分かってるんじゃない?」

「うるさい、うるさい! あんたに何が分かるんでかん。家族と会えないだの、家に帰れないだの、甘ったれたことばかり! そんな奴、珍しくもねーだがね! それをさも辛ゃーことみてーに泣き言並べて」

 言葉をなくして黙りこんだ草月に追い討ちをかけるように、おくみはさらに言い募る。

「住む家があって、ご飯も食べさせてもらえて、それがどんなけん恵まれとることか、分かっとるだきゃ? 新吉も言うとったがや! 女将さんはひでぇ人だで、仕返ししてやれと」

「――新吉?」

 黙って二人のやり取りを聞いていた高杉が、初めて口をはさんだ。

「誰じゃ、そいつは?」

「誰だっていいだがね。ええから邪魔せんやあせ!」

 草月を突き飛ばすようにして、おくみは闇の中へ消えていった。

 しばし、草月は呆然とその場に佇んでいた。おくみの言った言葉がぐるぐると頭の中を回って、うまくものが考えられなかった。

「私――」

 草月が何かを言いかけたと同時。

 宿のほうから、何か揉み合うような物音がした。物が倒れる音に混じり、女将の悲鳴が聞こえる。

「――女将さん!」

 驚いて駆けつけた二人は、目の前の光景にはっと息を飲んだ。

 鍋や食器が散乱した土間の中、男が凶悪な笑みを浮かべておくみの喉元に刃を突きつけていたからだ。女将は腰を抜かしたように座り込んでいる。

「まったく、面倒なことになっちまったもんだぜ」

「し、新吉、何するだ!?」

「へへ、おめーのとろくせゃあ話にもうちっと付き合ってやっても良かったんだけどが、事情が変わったもんだで」

「どういうことだか?」

「まだ分かんねえだか。おめでてえ奴だぜ。最初から俺の狙いはこの宿だ。大通りから外れたここは遊郭にするにはうってつけだ。前から売ってくれと言っとるけんど、なかなか売ろうとせん。宿が寂れりゃー、気が変わるかと幽霊の噂をたてたのに、こんなになっても売る気はないの一点張り。金儲けの計画が台無しじゃないか」

「ちょっと待って、それじゃあ、あたしに幽霊話を持ちかけたのは……」

「ああ、宿を手に入れるための方便だ。ちょっと優しい言葉かけてやったら、ころっと騙されて」

「そんな……」

 みるみる目に涙を浮かべたおくみを無視して、新吉は女将に向き直った。

「さあ、ババア、宿の沽券を渡しな。さもねえと、この女の首をかっ切るだ!」

「やめとくれ!」

 女将が悲痛な声をあげる。

「店でも何でもくれてやるだで! おくみは、おくみには手を出さんで! ……おくみ、ごめんね、あの時、無理にでも帰らせてやっとれば」

「違う、女将さん!」

 刃が当たるのも構わず、おくみは叫んだ。

「ホントは、自分で帰らなかったんだ。お偉い方のお目に留まれば、お屋敷勤めも夢じゃない。あんな酒飲みのロクでもない父親から離れて、楽な暮らしができるって、そう思ったんだ。そんな自分が嫌で、女将さんのせいにしてただけなんだ。ごめんなさい、女将さん、ごめんなさい……」

「おくみ……」

「はっ、とんだお涙ちょうだいだぜ! 仲直りしたところで、さっさと出してもらおうか。……物騒なこと考えとるお侍さんがいるようだしなあ」

 じりじりと間合いをつめていた高杉はぴたりと動きを止めた。

(気付いちょったか。どのみち、おくみがいたのでは、うかつに手が出せん。どうにか注意をそらせればいいんじゃが)

 素早く左右に目を走らせる。

 裏口を背にした高杉の正面に新吉とおくみ。数歩の距離を空けて女将。草月は……。

(草月がいない?)

 隣にいたはずの草月の姿がいつの間にか消えている。代わりに、向かいの部屋側の入り口からひょこんと顔を出し、しきりに中の様子を窺っている。

(何かするつもりか)

 ふいに草月がこちらを向いた。手には見覚えのある巾着。それを指差し、つまんで投げるしぐさをする。

(なるほど、そういうことか)

分かった、と、目だけで頷いて、機を窺う。

「――沽券は手文庫の中にしまってあるだ。すぐに持ってくるで……」

 よろよろと立ち上がった女将の横を、突如小石が飛んだ。狙い違わず、それは新吉の頭に当たり、驚いた新吉の注意がおくみから逸れた。

 その一瞬の隙。

 高杉には十分だった。一足飛びに間合いに入り、手刀で刀を叩き落とすと、返す刀で新吉を勢い良く投げ飛ばす。見事な投げ技が決まり、新吉はぐえっと言ったままそれきり動かなくなった。

「――おくみ!」

 くずおれそうになったおくみを、女将が思いきり抱きしめた。

「大丈夫かい? 怪我は? ああ、無事なんだね、良かった……。心配したんだよ、本当に」

「ごめんなさい、女将さん……。ごめんなさい……」

「いいんだよ。分かっとるで」

 おくみの目から大粒の涙があふれた。泣きじゃくるおくみの背中を、女将は幼子をあやすように叩いてやる。

「良かったですね、二人、仲直りできて」

 草月は、ほっとしたように微笑んだ。

「ふん。こっちは、盛大な親子喧嘩に付き合わされた気分じゃがな」

「確かに」

 草月はふふっと笑って、

「でも、あの二人見てると、ホントの親子みたいですよね。……あ、そういえば、あの石、どこにいっちゃったんだろ。せっかく平太君からもらったものなのに」

 きょろきょろと辺りを見回すと、割れた茶碗の傍に転がっているのを見つけた。

「ああ、あった、あった」

 拾おうと屈みこんだと同時、高杉の鋭い声が飛んだ。

「――草月!」

「え?」

 振り向きざま、体に強い衝撃が走る。突如起き上がった新吉が、草月を突き飛ばしたのだ。抱き止めてくれた高杉ごと、草月は床に倒れ込んだ。

「――っ、大丈夫か?」

「は、はい、なんとか」

「っくそ、――待て!」

 逃げた新吉を追いかけて部屋を出たと同時、突如横の壁がくるりと扉のように開き、逃げる新吉の顔面に直撃した。

「ぐえっ」

 蛙が潰れたような声を上げ、新吉は今度こそ倒れて動かなくなる。呆気に取られて見つめる二人の前で、壁の中からゆっくりと志道が姿を現した。


                       *


「それで、一体どういうことじゃ、聞多!? 女将も知らんあの壁のからくりを何でおのしが知っちょる?」

 とりあえず新吉を土間に転がし――もちろん、逃げられないように、縄でぐるぐるに縛り上げて――、ようやく一息ついたところで、互いの事情説明となった。

 疑問符だらけの面々をもったいぶって見回して、志道はおくみの淹れた熱い茶をぐいと飲んでからようやく口を開いた。

「のんびり風呂に浸かっちょったんじゃが、気が付いたら、いつのまにか側に小さな童がいてな」

 年の頃は五つか六つくらい。まるで市松人形のような容姿で、どこから来たのか聞いても何も言わず、ただしきりについてきて欲しそうなそぶりをする。多少興味を引かれて、手を引かれるままに風呂場の脇の壁の抜け道を通り抜けていくと、何やら物騒な声が耳に入ってきた。そして、これはいかんと飛び出た先が、あの場所だったのだ。

「童? 童なんていたか?」

「ああ、それが、いつの間にかいなくなっちょってのう。どうせ近所の童がいたずら半分で抜け道を見つけて、騒ぎに驚いて逃げたんじゃろう」

「けんど、ここにそんな抜け穴があったなんて、知りませんでした。もともとこの家は買ったもんですし、前の持ち主からも、そんなことは聞いとらんかったですだで」

「古い家のようじゃけえのう」

 高杉はぐるりと部屋を見回し、

「今はまだましになったとはいえ、昔は治安も悪かった。身を守るため、脱出路を確保しておくのはたいして珍しくもない。僕らがいた江戸の藩邸にも、同じような通路があるはずじゃぞ」

「えっ? ホントですか!? どこにあったんです?」

「僕は知らん」

 高杉はすげなく返した。

「麻田さんあたりなら知っちょるかもしれんが。そう誰にでも知られちょったら、隠し通路にならんじゃろ」

「あ、そうか……」

(うわ、でもなんか忍者屋敷みたい。私も一度通ってみたいなあ)

 不埒な考えを巡らせていると、ずっと黙っていたおくみが居住まいを正して深々と頭を下げた。

「お侍さま方、この度は本当にご迷惑をおかけしました。こんなことになったのも、あたしの甘えた性根から来たもんですだ。草月さんにもひでーこと言って」

「……ううん。おくみさんが言ったのは、本当のことだもの。そりゃ、最初はちょっと悲しかったけど、でも、はっきり言ってもらってすっきりした。おくみさんなら、きっと女将さんを支えていけるよ。おくみさん、良く人を見てるし。あんなに早く私をおなごだって見抜いたの、おくみさんが初めてだよ?」

「おう、それは相当なもんじゃぞ。わしなんぞ、こいつがおなごじゃとは未だに信じられんくらいじゃ。いっそ素っ裸でも見たら納得するが」

「――変なこと言わないでください!」

「安心しろ、お前の裸を見たところで何とも思わん」

「こっちだって志道さんの裸なんか興味ありません!」

 二人のやり取りを見ていた女将が、堪えきれないように笑い出す。懸命に真面目な顔を保とうとしていたおくみもついに笑い出し、それはさざ波のように広がって、いつしか宿を明るく包んでいた。


 ――そして。

 明るい笑い声が響く部屋の片隅で、ひっそりとうずくまっていた子供が三日月形に口を開く。そして、現れた時と同じ静かさで、風に吹かれた砂像のようにすーっと消えた。



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