第31話 幽霊宿・前
「ああ、もう、ほんっと信じられない! あり得ない、絶対!」
まだ人もまばらな夜明け前、冷たい雨がそぼ降る三河国の街道を、どすどすと足音荒く歩く人影一つ。少し遅れて、いかにもよたよたと頼りない足取りの影が二つそれに続く。後ろの一人がげんなりした顔で、文句を言った。
「やかましいのう、あまり大声出すな、頭に響く」
「誰のせいで怒ってると思ってるんですか、だ・れ・の! 飲みまくった挙げ句、旅の費用ほとんど使い果たすなんて」
「じゃから、悪かったと言うちょるじゃろうが。それに、たんに飲みまくったんじゃない、飲み比べじゃ! 負けたほうがその場の酒代やら宿代やらを払うという約束で。……なあ、高杉?」
「うん、あんなお迎えの近そうな爺さん、ちょろいもんじゃと思うたんじゃが。なかなか、侮れんかった。世の中は広いということじゃな」
「妙に達観したような台詞言ってごまかさないでください。どうせ、綺麗な女中さんにおだてられて、その気になったんでしょう! こんなことなら、私も残れば良かった」
もうっ、と大きく息を吐いて、草月は合羽の前をかき合わせた。
昨夜から降り出した雨は、いっこうに止む気配をみせない。土はぬかるみ、何度も泥に足を取られて滑りそうになった。合羽の隙間から流れるしずくで、早くも着物がしっとりと濡れ始めている。
ことの起こりは昨日の夜。
道中でとある陽気な旅の老人と意気投合した三人は、二川宿の旅籠で酒盛りを開いた。疲れていた草月はほどほどで切り上げて自室に引き取ったのだが、残った二人はその後も飲み続け、ついには飲み比べへと発展した。
そして結果は惨敗。
朝起きて、ことの次第を聞かされた草月は怒り狂った。金が足らぬというので、なけなしの金をかき集めてどうにか支払い、逃げるように旅籠を出たのだ。
「どうするんです、これから! よっぽど切り詰めないととても持ちませんよ!」
「そう喚くな。心配せんでも、その五両の為替を現金に替えれば何とかなる。岡崎まで行けば、大きな宿場じゃけぇ、両替商もあるじゃろう。……しかし、桂さんも人が悪い。草月にだけ、こっそりそんな金を渡しちょったとは」
「それは二人に渡したら、あっという間に使っちゃうからですよ」
何かあった時のため、と持たせてくれていたものだが、まさか本当に使うことになるとは夢にも思わなかった。
「後でちゃんと、私が立て替えた分も返してくださいね。大事な当座の生活費なんですから。仕事が見つかるまでの宿代とか食事代とか……」
草月が言うと、高杉は変な顔をした。
「……仕事?」
「はい。あの屏風が見つかるまで、どれだけ時間がかかるか分かりませんし、暮らしていくのに、やっぱり先立つものは必要ですから」
「そうじゃのうて……。おのし、藩邸には住まん気か?」
「え? だって……」
草月はぱしぱしと目を瞬かせた。
「元々、私が長州でお世話になってたのは、その……」
志道の手前、言葉を濁し、
「……何と言うか、よんどころない事情があったからですし。京に着いてまで、長州のお世話になるわけにはいきませんよ」
「ふうん」
高杉は面白くなさそうに気のない返事をした。
*
よだれのでそうな、煎餅の焼ける香ばしい匂いに、甘い醤油だれの香りが重なる。食べたい気持ちを泣く泣く振り切り、
「お、お茶をください」
売り子にそれだけ注文して、視線を煎餅から引き剥がした。
雨は降ったり止んだりを繰り返し、今はちょうど小康状態にある。
「真面目な話、どうします、今日の宿。木賃宿でもあればいいですけど」
運ばれてきた茶を一口含むと、暖かさがじんわりと冷えた体に染み込んでいく。
先ほど通り過ぎた御油や赤坂宿の旅籠は、多くの飯盛女を抱え、客の取り合いが激しいことで有名だが、客引きは草月達が金を持っていないと分かると、しがみついていた腕をあっさり離し、他の客へ移っていった。
すでに夕暮れが近く、休憩に立ちよったこの茶屋にも、旅人に混じって、仕事帰りらしき地元の者の姿がちらほら見える。
「安宿をお探しなら、ちょうどいいのがあるだがや」
会話を聞き付けたのか、地元民らしき男が、するりと三人に近寄ってきて耳打ちした。男は、胆力あるお侍様と見込んで言うけどが、と前置きして、
「実は、この先の藤川宿に、幽霊が出ると噂の宿があるんだわ。大通りから外れてるもんで立地は悪いけどが、旨い飯が出るんで、そこそこ客もあったんだ。でも、秋ごろ幽霊の噂が立ち始めてから、めっきり客が来おせんようになったらしくて。そこなら、安く泊まれると思うだがや」
「ほお」
顔色を変えた草月とは対照的に、高杉と志道はにやりと顔を見合わせた。
「ちょっと、何ですか、その顔。絶っ対、嫌ですよ! そんなとこに泊まるくらいなら、無理してでも次の宿場に行く方がましです! なんと言われようが、行きませんからね!」
草月の必死の叫びは無情にも夕空に消えた。
*
草におおわれた庭に、今にもつぶれそうな傾いた屋根。
そんなおどろおどろしい宿を想像していたのだが、意外にも、行き着いたのはこじんまりとした小綺麗な宿だった。大通りからは少し離れているが、その分静かで、ゆっくりと旅の疲れを癒したい者にはうってつけの所だ。
「まあまあ、よういりゃあたなも(よくいらっしゃいました)」
訪いを入れると、ふくよかな体つきの女将がにこにこと一行を出迎えた。
「二部屋? ええ、ええ、二部屋でも三部屋でもようけ空いておりますがね。なんせ幽霊宿なんて噂の宿だで、皆怖がって寄り付きゃーせん。以前は、どこかの若様がお忍びでおいでたこともあったんですけどが。お侍ゃー様らで、三日振りのお客様ですわ。とびきりの部屋をご用意させてもらうがね。……え? いささか手もと不如意で? あんた、そんなこと分かっとるわさ。今時分、わざわざここにおいでるんは、幽霊見たさの変わり者か、懐の寒い旅の方くらいだで。ただ、お客様には、いつでも最高のおもてなしをしたいだけなんでごぜーます。さあさ、こちらですわ、どうぞ」
まさに立て板に水。
口を挟む間もない女将の口上に、さしもの志道も毒気を抜かれたようにただ頷いていた。
*
三人が案内されたのは、庭に面した居心地の良い六畳間だった。部屋に入るまで女将の話は途切れることなく続き、ようやく女将のおしゃべりから解放された志道はやれやれと足を投げ出した。早々に我関せずを決め込んだ連れの二人をじろりと睨む。
「お・前・らは、わしにばかり押し付けて。ちっとは助けようという気が起こらんのか」
「おう、すまんのう。いや、話がはずんじょるようじゃったから、邪魔してはいかんと思うて。なあ、草月?」
「そうそう。とっても気に入られたみたいで良かったじゃないですか。なぜかご年配のおば様にモテるんですよねぇ、志道さんて」
「ちっ。急に元気になりおって、いまいましい」
草月はうっふっふと笑い、
「だって、この宿、とても幽霊がでるような雰囲気じゃないですもん。確かに建物は古そうですけど、綺麗に手入れされてるし。どうせ、すきま風の音を幽霊と勘違いしたとかじゃないですか?」
「ふん、余裕ぶっていられるのも今のうちじゃぞ。幽霊というのはな、気を抜いた時に現れるもんなんじゃ。今もほれ、お前の横に白い女の首が……」
「まーた、そんなこと……」
言いかけた言葉が途中でつまる。
次の瞬間、声にならない悲鳴をあげて後ずさった。
見知らぬ若い女が隣にいたのだ。
女はきょとんとして、
「あんれま、どうかされたがね? もしかして、甘いものはお嫌いだったかしらん」
「えっ?」
よく見ると女は手に茶菓子の乗った盆を抱えている。
「あ、な、なんだ、女中さん。いえいえ、何でも! お菓子大好きです!」
慌ててごまかしつつ、横目で志道を睨む。
(紛らわしい言いかたしないでください! ホントに幽霊かと思ったじゃないですか!)
(わしは単に事実を言っただけじゃろうが)
志道はしてやったりといった表情で遠慮なく菓子に手を伸ばす。高杉が、
「ところで、さっき女将も言っちょったが、ここには幽霊が出るらしいのう? 実は僕らもそれが目当てで来たようなものなんじゃが、本当なのか?」
「ちょっと高杉さん、失礼ですよ」
慌てて袖を引いたが、女はお気になさらず、と手を振った。こういう質問には慣れているらしい。
すらすらと話してくれたことによると、幽霊が出ると言われ始めたのは半年ほど前から。客が夜中に火の玉を見たというのが最初だった。
「それからですなも。寝ている時に部屋で物音がしたり、持ち物がなくなっていたり、女の幽霊が出たり……。ああ、ちょうど、そこの廊下の奥ですがね。なんでも、ふーっと煙のように消えたんだと」
ぎょっとした草月に気付いたのか、女中――おくみというらしい――は取り成すように笑った。
「まあ、あくまで噂でございますで。お気になさらんと、ゆっくりくつろいでちょう。そうそう、お風呂はご夕食の後になりますけどが――」
ふっと言葉を切ると、少し考えるように草月を見つめて、
「――草月様は別にしたほうが良いですかしらん」
「え?」
「あら、だって」
おくみはいたずらっぽく笑い、さらりと口にした、
「草月様、女の方だきゃ?」
「――は?」
夜のしじまに、三人の間の抜けた声が響いた。
*
「な、何で分かったんですか!?」
思わず前のめりになった草月の言葉を、なんとなく、の一言で終わらせたおくみは、てきぱきと食事を用意し、膳を下げに来る頃にはちょうど湯が沸いていた。
「せっかくじゃけえ、先に入って来い」
高杉らの好意に甘えて、一番風呂をいただく。湯船にとっぷり体を沈めた途端、あぁー、と思わず声が出た。じんわりと手足の先まで温もりが伝わっていく。
「こんなにゆっくりお風呂に入るの、江戸を発って以来ですよ。これまでは、女とばれたらいけないって、部屋で体を拭くくらいしかできなかったから。ううーん、生き返るー」
大袈裟ですね、と笑い含みに言ったのは、風呂炊きをしてくれているおくみである。初めこそ、女とばれて焦ったものの、おくみに口外する気はなさそうであったし、むしろ草月としては、気がねなく女同士の話ができるとあって、嬉しい限りであった。身の上話や旅話に花が咲き、気が付けばすっかり長風呂になってしまっていた。
「すみません、遅くなりました!」
真っ赤に頬を上気させた草月と入れ違いに志道が風呂へ行き、部屋には不機嫌そうに碁盤を睨む高杉が残った。風呂の順番を賭けて、勝負をしたらしい。
「負けちゃったんですか」
ひょいと覗きこむと、眉間の皺を深くした高杉がじゃらりと碁石を崩して、顎をしゃくった
「気分直しじゃ、一局付き合え」
「いいですけど、私弱いですよ? 定石とか、良く知りませんし」
基本的な打ち方は知っているが、一度も人に勝てたためしがない。
「もとより期待しちょらん。定石外れの碁と打つ方が頭がほぐれて良い」
「はあ」
じゃあ、とばかりにころんとど真ん中に石を置いてやると、男は愉しげに目を細めた。
ころん、ぱちり
ころん、ぱちり
静寂の中、碁石を置く音だけが響く。
ふいに強い隙間風が吹いて、行灯の火をゆらりと揺らす。反射的に首をすくめた草月を見て、高杉が呆れた声を出した。
「なんじゃ、まだ幽霊なんぞ気にしちょるのか。とうに忘れたかと思うちょったが」
「う、うるさいですね。誰にだって苦手なものはありますよ!」
なぜさっき、草月が風呂が空いたと告げに来た時、さっさと自分の部屋に戻らなかったのか。
(一人でいたくなかったからに決まってるでしょうに! でなきゃ、お風呂上がりに男の人の部屋に居座るなんて、はしたない真似、するもんですか)
腹立ちまぎれに碁盤を睨み付けて、ふと思う。
(あれ、ということは……)
高杉が囲碁に誘ったのは、草月の気が紛れるように、との優しさだろうか。こっそりと上目遣いに様子を窺うと、なぜか高杉は何かに気を取られたように外を見ている。
(……?)
視線をたどったその向こう。外に面した障子越しに、ぼうっと光る火の玉が揺らめいている。
「――おのしはここで待っちょれ!」
硬直する草月を置き去りに、高杉は嬉々として外に飛び出していく。
「ええ!? ちょ、一人にしないでくださいよ!」
(前言撤回。高杉さんが優しいだなんて、ありえない! あの人は自分が面白いと思ったことにしか興味ないんだから!)
内心で毒づきながら、慌ててその背を追いかけた。




